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'''宣穆劉皇后'''(せんぼくりゅうこうごう、? - [[409年]])は、[[北魏]]の[[道武帝]]の夫人(側室)で、[[明元帝]]拓跋嗣の生母。[[皇后]]として追尊された。 |
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[[匈奴]][[独孤部]]の酋長の[[劉眷]]の娘として生まれた。兄は[[劉羅辰]]。 |
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[[登国]]初年、魏王拓跋珪(後の道武帝)にとついで夫人(側室)となり、華陰公主を生んだ。[[391年]](登国6年)、 |
[[登国]]初年、魏王拓跋珪(後の道武帝)にとついで夫人(側室)となり、華陰公主を生んだ。[[391年]](登国6年)、拓跋嗣を生んだ。後に後宮を取り仕切るようになって寵愛を受けた。 |
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金人の鋳造を命じられて完成しなかったため、皇后位に登ることはなかった。[[拓跋氏]]の風習では、後宮で生まれた子が後嗣となると、その母はみな[[賜死|死を賜る]]こととなっていた。[[409年]]([[天賜 (北魏)|天賜]]6年)7月、旧法にしたがって死去した。同年([[永興 (明元帝)|永興]]元年)10月、明元帝により「宣穆皇后」の[[諡号]]が贈られて追尊された。 |
金人の鋳造を命じられて完成しなかったため、皇后位に登ることはなかった。[[拓跋氏]]の風習では、後宮で生まれた子が後嗣となると、その母はみな[[賜死|死を賜る]]こととなっていた。[[409年]]([[天賜 (北魏)|天賜]]6年)7月、旧法にしたがって死去した。同年([[永興 (明元帝)|永興]]元年)10月、明元帝により「宣穆皇后」の[[諡号]]が贈られて追尊された。 |
2021年5月5日 (水) 07:30時点における版
宣穆劉皇后(せんぼくりゅうこうごう、? - 409年)は、北魏の道武帝の夫人(側室)で、明元帝拓跋嗣の生母。皇后として追尊された。
生涯
登国初年、魏王拓跋珪(後の道武帝)にとついで夫人(側室)となり、華陰公主を生んだ。391年(登国6年)、拓跋嗣を生んだ。後に後宮を取り仕切るようになって寵愛を受けた。
金人の鋳造を命じられて完成しなかったため、皇后位に登ることはなかった。拓跋氏の風習では、後宮で生まれた子が後嗣となると、その母はみな死を賜ることとなっていた。409年(天賜6年)7月、旧法にしたがって死去した。同年(永興元年)10月、明元帝により「宣穆皇后」の諡号が贈られて追尊された。