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即位後間もない1533年、[[ハウハ]]において、[[天然痘]]により死亡した。そのため、歴代インカ皇帝に入れない見解もある。
即位後間もない1533年、[[ハウハ]]において、[[天然痘]]により死亡した。そのため、歴代インカ皇帝に入れない見解もある。

== 子女・子孫 ==
トゥパック・ワルパは5人の子の父親となった。子女の中で特に有名なのが、娘[[チンプ・オクリョ]](1523年 - 1571年)である。彼女はスペイン人の征服者[[カピタン・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ]](1507年 - 1559年)と結婚し、『インカ皇統記』の著者・インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ(幼名はゴメス・スワレス・デ・フィゲローア。1539年4月12日 - 1616年4月23日)を儲けた。トゥパック・ワルパの孫である。

インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガには少なくとも2人の息子がいた。2人はそれぞれ異なる召使いとの関係から生まれている。1人の息子が1570年に生まれたと記録され、幼い頃に死んだかもしれない。次男にディエゴ・デ・バルガス(1590年生まれ)がおり、父を手伝い、少なくとも1651年まで生き延びた記録がある為、それ以降に没したと推測される。

インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガの長男は1595年のソロモン諸島への遠征でアルバロ・デ・メンダーニャの艦隊で船を指揮した「提督」ロペ・デ・ベーガだった可能性がある。ロペ・デ・ベガは船が霧の中でメンダーニャの艦隊から別れたとき、海難事故に遭遇して死亡したと思われる。

インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガの子供達はワイナ・カパックの玄孫、トゥパック・ワルパの曾孫、チンプ・オクリョの孫、ワスパル・アタワルパ兄弟の曾姪孫(兄弟の曾孫)となる。

トゥパック・ワルパの他の4人の子もそれぞれ子孫を残している。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2020年12月13日 (日) 04:57時点における版

トゥパック・ワルパ: Tupac Huallpaケチュア語: Tupaq Wallpa=幸福で高貴な者、1510年頃 -1533年、在位:1533年)は、名目上インカ帝国の14代皇帝。父は11代皇帝ワイナ・カパックHuayna Capac)。兄に12代ワスカルHuascar)、13代アタワルパAtahualpa)、弟に15代マンコ・インカ・ユパンキManku Inka Yupanki)がいる。ただし一説によると、マンコ・インカ・ユパンキはワイナ・カパックの子ではなく下級貴族出身ともいう。

ペルースペイン征服期においてコンキスタドールフランシスコ・ピサロによって擁立された、傀儡インカ皇帝である。実質的に最後の皇帝であったアタワルパの死後、スペインの征服者たちは、現地人にインカによる統治がまだ続いていると思わせるため、傀儡としてトゥパック・ワルパをインカの支配者に任命し、荘厳な承認式を挙げ即位させた。彼と彼の親族は、スペイン人が彼を利用してペルーを統治し、彼の国の金銀財宝を収奪していることを知らなかった。

即位後間もない1533年、ハウハにおいて、天然痘により死亡した。そのため、歴代インカ皇帝に入れない見解もある。

関連項目


先代
アタワルパ
サパ・インカ
1533年
次代
マンコ・インカ・ユパンキ