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[[Image:İsa Bey Camii.jpg|thumb|200px|[[セルチュク]]の[[イサ・ベイ・モスク]]。1375年、アイドゥン侯国により建立。]]
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'''アイドゥン侯国'''(‐こうこく、'''Aydınoğlu''')は[[ビルギ]]に都し後にアヤスルー(Ayasluğ、現[[セルチュク]])に遷都した、[[14世紀]]の[[ルーム・セルジューク朝]]の衰退期に[[オグズ]]諸部族により建国された辺境の君侯国([[ベイリク]])の一つ。国名は創始者のアイドゥノール・メフメド・ベイ(Aydınoğlu Mehmed Bey)に因む。
'''アイドゥン侯国'''(‐こうこく、'''Aydınoğlu''')は[[ビルギ]]に都し後にアヤスルー(Ayasluğ、現[[セルチュク]])に遷都した、[[14世紀]]の[[ルーム・セルジューク朝]]の衰退期に[[オグズ]]諸部族により建国された辺境の君侯国([[ベイリク]])の一つ。国名は創始者のアイドゥノール・メフメド・ベイ(Aydınoğlu Mehmed Bey)に因む。
==歴史==

[[イズミル]]の港の一部を最後まで領有し続け、断続的にその町を領有していた時期もあった。特にアイドゥンの息子アイドゥノール・ウムル・ベイ(Aydınoğlu Umur Bey)の治世では強い海軍力を持った。
[[イズミル]]の港の一部を最後まで領有し続け、断続的にその町を領有していた時期もあった。特にアイドゥンの息子アイドゥノール・ウムル・ベイ(Aydınoğlu Umur Bey)の治世では強い海軍力を持った。


この国が最初に[[オスマン帝国]]に組み入れられたのは[[1390年]]だが、[[ティムール朝]]の[[アナトリア]]侵略が起きた[[1402年]]以降反乱し、[[1425年]]の平定で完全にオスマン帝国の一部となった。
この国が最初に[[オスマン帝国]]に組み入れられたのは[[1390年]]だが、[[ティムール朝]]の[[アナトリア]]侵略が起きた[[1402年]]以降反乱し、[[1425年]]の平定で完全にオスマン帝国の一部となった。


都市名の[[アイドゥン]]はこの王朝名に由来する。
都市名の[[アイドゥン]]はこの王朝名に由来する。

2020年12月12日 (土) 15:48時点における版

セルチュクイサ・ベイ・モスク。1375年、アイドゥン侯国により建立。

アイドゥン侯国(‐こうこく、Aydınoğlu)は、ビルギに都し後にアヤスルー(Ayasluğ、現セルチュク)に遷都した、14世紀ルーム・セルジューク朝の衰退期にオグズ諸部族により建国された辺境の君侯国(ベイリク)の一つ。国名は、創始者のアイドゥノール・メフメド・ベイ(Aydınoğlu Mehmed Bey)に因む。

歴史

イズミルの港の一部を最後まで領有し続け、断続的にその町を領有していた時期もあった。特にアイドゥンの息子アイドゥノール・ウムル・ベイ(Aydınoğlu Umur Bey)の治世では強い海軍力を持った。

この国が最初にオスマン帝国に組み入れられたのは1390年だが、ティムール朝アナトリア侵略が起きた1402年以降に反乱し、1425年の平定で完全にオスマン帝国の一部となった。

都市名のアイドゥンはこの王朝名に由来する。

脚注