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'''陸 羽'''(りく う、[[733年]] - [[804年]])は、[[中国]]の[[唐|唐代]]の文筆家。[[茶]]の知識をまとめた『[[茶経]]』3巻などを著述した。またの名を疾、[[字]](あざな)は鴻漸(こうぜん)、季疵、号は桑苧翁と称した(他からは竟陵子と呼ばれた)。他の著作に『毀茶論』、『君臣契』、『源解』、『陸文学自伝』(『茶経』以外は散逸)がある。 |
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[[日本]]の[[思想家]][[岡倉天心|岡倉覚三]](天心)はその著書『[[茶の本]]』の中で陸羽を「'''茶道の鼻祖'''」と評した<ref name="aozora">[http://www.aozora.gr.jp/cards/000238/files/1276_31472.html 岡倉覚三 村上博訳 茶の本] - [[青空文庫]]</ref>。 |
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陸羽の姓「'''陸'''」については彼を拾った[[僧侶]]の俗姓をもらい陸とした、又は[[易]]の卦(け)にしたがって名付けた、などの説が伝えられている<ref name="ina"/>。 |
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==経歴== |
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捨て子として3歳くらいの時に浜で竟陵龍蓋寺の智積禅師に拾われた。容貌はさえず、しゃべり方に[[吃音]]があったが、雄弁であったという。 |
捨て子として3歳くらいの時に浜で竟陵龍蓋寺の智積禅師に拾われた。容貌はさえず、しゃべり方に[[吃音]]があったが、雄弁であったという。 |
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幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという。 |
幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという。 |
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逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。[[天宝 (唐)|天宝]]年間に、 |
逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。[[天宝 (唐)|天宝]]年間に、竟陵の長官の李斉物(りせいぶつ)([[:zh:李齊物|zh]])の目に止まり、書を教えられ学問を学んだ。孤児であった陸羽が、知的階級の人々と交流するきっかけをつくってくれたのが、李斉物であった。その後、竟陵司馬の崔国輔(さいこくほ)([[:zh:崔國輔|zh]])とも交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした。 |
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* 『[[新唐書]]』巻百九十六 列伝第百二十一隠逸<ref>{{Cite wikisource|title=新唐書/卷196|author=欧陽脩、宋祁|wslanguage=zh}}</ref>「陸羽伝」 |
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== 参考文献 == |
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*[[陳舜臣]] 『茶の話 茶事遍路』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1992年、ISBN 978-4022607058 |
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*成田重行 『茶聖陸羽 茶経を著した偉人の生涯』 淡交社、1998年、ISBN 978-4473016249 |
*成田重行 『茶聖陸羽 茶経を著した偉人の生涯』 淡交社、1998年、ISBN 978-4473016249 |
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*『中国の茶書』 布目潮渢、中村喬編訳、平凡社〈東洋文庫〉、1983年、ISBN 978-4582802894 |
*『中国の茶書』 布目潮渢、中村喬編訳、平凡社〈東洋文庫〉、1983年、ISBN 978-4582802894 |
2020年10月30日 (金) 09:39時点における版
陸 羽(りく う、733年 - 804年)は、中国の唐代の文筆家。茶の知識をまとめた『茶経』3巻などを著述した。またの名を疾、字(あざな)は鴻漸(こうぜん)、季疵、号は桑苧翁と称した(他からは竟陵子と呼ばれた)。他の著作に『毀茶論』、『君臣契』、『源解』、『陸文学自伝』(『茶経』以外は散逸)がある。
日本の思想家岡倉覚三(天心)はその著書『茶の本』の中で陸羽を「茶道の鼻祖」と評した[1]。
出自
陸羽は捨て子であった可能性が高く出自は不明である[2]。そのため、確実ではないが生年733年、出身地を竟陵(きょうりょう)(現在の湖北省天門市)とする通説が知られている[2]。
陸羽の姓「陸」については彼を拾った僧侶の俗姓をもらい陸とした、又は易の卦(け)にしたがって名付けた、などの説が伝えられている[2]。
経歴
捨て子として3歳くらいの時に浜で竟陵龍蓋寺の智積禅師に拾われた。容貌はさえず、しゃべり方に吃音があったが、雄弁であったという。
幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという。
逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。天宝年間に、竟陵の長官の李斉物(りせいぶつ)(zh)の目に止まり、書を教えられ学問を学んだ。孤児であった陸羽が、知的階級の人々と交流するきっかけをつくってくれたのが、李斉物であった。その後、竟陵司馬の崔国輔(さいこくほ)(zh)とも交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした。
756年(至徳元載)、安禄山の乱を避けようと北方の知識人たちは、江南地方へ逃れた。陸羽も760年(上元元年)の頃、湖州の苕渓に避難。庵(いおり)をつくって隠居し、桑苧翁と号し著書を書き出した。僧の釈皓然と親交を結び、野を一人で歩いて回ったという。隠居中に、朝廷から太子文学や太常寺太祝に任命されたが、辞退した。14年の茶の研究を『茶経』にまとめ、10年後に780年(建中元年)に補足をつけた『茶経』3巻を著す。
大暦年間に、湖州刺史として赴任してきた顔真卿(がんしんけい)のもとで、『韻海鏡源(いんかいきょうげん)』の編纂に加わった。御史大夫の李季卿に冷遇され、『毀茶論』を著したこともある。
伝記資料
脚注
- ^ 岡倉覚三 村上博訳 茶の本 - 青空文庫
- ^ a b c 井波律子(編集)「中国史重要人物101 2005年 新書館 ISBN 4403250203
- ^ 欧陽脩、宋祁 (中国語), 新唐書/卷196, ウィキソースより閲覧。
参考文献
- 陳舜臣 『茶の話 茶事遍路』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1992年、ISBN 978-4022607058
- 成田重行 『茶聖陸羽 茶経を著した偉人の生涯』 淡交社、1998年、ISBN 978-4473016249
- 『中国の茶書』 布目潮渢、中村喬編訳、平凡社〈東洋文庫〉、1983年、ISBN 978-4582802894
- 熊倉功夫・程啓坤編『陸羽「茶経」の研究』(世界茶文化学術研究叢書I)宮帯出版社、2012年、ISBN 978-4-86366-861-4