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'''堀 直喜'''(ほり なおよし、[[享保]]15年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]([[1730年]][[2月22日]]) - [[寛延]]4年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]([[1751年]][[7月14日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]で、[[越後国|越後]][[椎谷藩]]第5代藩主。[[堀直之|直之]]系[[堀氏|堀家]]7代。第3代藩主・[[堀直恒]]の長男。母は稲垣重武の娘。正室はなし。[[仮名 (通称)|通称]]は鎚五郎。官位は従五位下、[[飛騨国|飛騨]]守。
'''堀 直喜'''(ほり なおよし、[[享保]]15年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]([[1730年]][[2月22日]]) - [[寛延]]4年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]([[1751年]][[7月14日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]で、[[越後国|越後]][[椎谷藩]]第5代藩主。[[堀氏|椎谷堀家]]8代。第3代藩主・[[堀直恒]]の長男。母は稲垣重武の娘。正室はなし。[[仮名 (通称)|通称]]は鎚五郎。官位は従五位下、[[飛騨国|飛騨]]守。


享保15年(1730年)に生まれたが、その年に父・直恒が死去している。[[延享]]4年([[1747年]])、第4代藩主で従兄の[[堀直旧|直旧]]の養子となり、寛延元年([[1748年]])に直旧の死により[[家督]]を相続した。翌寛延2年([[1749年]])、[[大坂城]][[加番]]を命じられた。寛延4年(1751年)死去。同族の[[信濃国]][[須坂藩]]堀家から養子に[[堀直著|直著]]を迎えて跡を継がせた。
享保15年(1730年)に生まれたが、その年に父・直恒が死去している。[[延享]]4年([[1747年]])、第4代藩主で従兄の[[堀直旧|直旧]]の養子となり、寛延元年([[1748年]])に直旧の死により[[家督]]を相続した。翌寛延2年([[1749年]])、[[大坂城]][[加番]]を命じられた。寛延4年(1751年)死去。同族の[[信濃国]][[須坂藩]]堀家から養子に[[堀直著|直著]]を迎えて跡を継がせた。

2020年5月25日 (月) 00:02時点における版

堀 直喜(ほり なおよし、享保15年1月6日1730年2月22日) - 寛延4年6月22日1751年7月14日))は、江戸時代中期の大名で、越後椎谷藩第5代藩主。椎谷堀家8代。第3代藩主・堀直恒の長男。母は稲垣重武の娘。正室はなし。通称は鎚五郎。官位は従五位下、飛騨守。

享保15年(1730年)に生まれたが、その年に父・直恒が死去している。延享4年(1747年)、第4代藩主で従兄の直旧の養子となり、寛延元年(1748年)に直旧の死により家督を相続した。翌寛延2年(1749年)、大坂城加番を命じられた。寛延4年(1751年)死去。同族の信濃国須坂藩堀家から養子に直著を迎えて跡を継がせた。