「アルブレヒト (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
[[image:Albrecht von Brandenburg-Ansbach (aka).jpg|right|180px|thumb|1643年の肖像]]
| 人名 = アルブレヒト
| 各国語表記 = Albrecht
| 家名・爵位 = [[アンスバッハ侯領|ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯]]
| 画像 = Albrecht von Brandenburg-Ansbach (aka).jpg
| 画像サイズ = 180px
| 画像説明 = 1643年の肖像
| 在位 = [[1634年]] - [[1667年]]
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| 全名 =
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| 出生日 = {{生年月日と年齢|1620|9|18|no}}
| 生地 = [[アンスバッハ]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1620|9|18|1667|10|22}}
| 没地 = アンスバッハ
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = ヘンリエッテ・ルイーゼ・フォン・ヴュルテンベルク
| 配偶者2 = ゾフィー・マルガレーテ・フォン・エッティンゲン=エッティンゲン
| 配偶者3 = クリスティーネ・フォン・バーデン=ドゥルラハ
| 子女 = [[#子女|一覧参照]]
| 家名 = [[ホーエンツォレルン家]]
| 父親 = ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯[[ヨアヒム・エルンスト (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ヨアヒム・エルンスト]]
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'''アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ'''(Albrecht von Brandenburg-Ansbach、[[1620年]][[9月18日]]、[[アンスバッハ]] - [[1667年]][[10月22日]]、アンスバッハ)は[[フランケン地方]][[アンスバッハ侯領]]の[[辺境伯]]。ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯[[ヨアヒム・エルンスト (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ヨアヒム・エルンスト]]とその妻[[ゾフィー・ツー・ゾルムス=ラウバッハ]]の次男。[[フリードリヒ3世 (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|フリードリヒ]]の弟。
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父の死後、兄のフリードリヒが初めは母親の後見下でアンスバッハ侯領の統治を行った。だが、[[1634年]]にその兄が[[ネルトリンゲンの戦い (1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]で独身のまま命を落としたため、アルブレヒトが遺領を継ぐこととなった。アルブレヒトの場合も未成年のため、最初の数年間は母が後見と実務を行った。[[1639年]]に成人した後は単独でブランデンブルク=アンスバッハ侯領の統治を行った。
父の死後、兄のフリードリヒが初めは母親の後見下でアンスバッハ侯領の統治を行った。だが、[[1634年]]にその兄が[[ネルトリンゲンの戦い (1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]で独身のまま命を落としたため、アルブレヒトが遺領を継ぐこととなった。アルブレヒトの場合も未成年のため、最初の数年間は母が後見と実務を行った。[[1639年]]に成人した後は単独でブランデンブルク=アンスバッハ侯領の統治を行った。
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* アルベルティーネ・ルイーゼ(1646年 - 1670年)
* アルベルティーネ・ルイーゼ(1646年 - 1670年)
* ゾフィー・アマリー(1649年 - 1649年)
* ゾフィー・アマリー(1649年 - 1649年)

[[1651年]]、ゾフィー・マルガレーテ・フォン・エッティンゲン=エッティンゲン(1634年 - 1664年)と再婚、5人の子を儲けた。
[[1651年]]、ゾフィー・マルガレーテ・フォン・エッティンゲン=エッティンゲン(1634年 - 1664年)と再婚、5人の子を儲けた。
* ルイーゼ・ゾフィー(1652年 - 1668年)
* ルイーゼ・ゾフィー(1652年 - 1668年)
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[[1664年]]、[[バーデン (領邦)|バーデン=ドゥルラハ辺境伯]][[フリードリヒ6世 (バーデン=ドゥルラハ辺境伯)|フリードリヒ6世]]の娘クリスティーネ・フォン・バーデン=ドゥルラハ(1645年 - 1705年)と3度目の結婚をした。子供はいない。



2019年12月16日 (月) 11:25時点における版

アルブレヒト
Albrecht
ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯
1643年の肖像
在位 1634年 - 1667年

出生 (1620-09-18) 1620年9月18日
アンスバッハ
死去 (1667-10-22) 1667年10月22日(47歳没)
アンスバッハ
配偶者 ヘンリエッテ・ルイーゼ・フォン・ヴュルテンベルク
  ゾフィー・マルガレーテ・フォン・エッティンゲン=エッティンゲン
  クリスティーネ・フォン・バーデン=ドゥルラハ
子女 一覧参照
家名 ホーエンツォレルン家
父親 ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨアヒム・エルンスト
母親 ゾフィー・ツー・ゾルムス=ラウバッハ
テンプレートを表示
1634年の肖像
アンスバッハ辺境伯アルブレヒト

アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ(Albrecht von Brandenburg-Ansbach、1620年9月18日 - 1667年10月22日)は、フランケン地方アンスバッハ侯領辺境伯。ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨアヒム・エルンストとその妻ゾフィー・ツー・ゾルムス=ラウバッハの次男。フリードリヒの弟。

父の死後、兄のフリードリヒが初めは母親の後見下でアンスバッハ侯領の統治を行った。だが、1634年にその兄がネルトリンゲンの戦いで独身のまま命を落としたため、アルブレヒトが遺領を継ぐこととなった。アルブレヒトの場合も未成年のため、最初の数年間は母が後見と実務を行った。1639年に成人した後は単独でブランデンブルク=アンスバッハ侯領の統治を行った。

子女

1642年ヴュルテンベルク=メンペルガルト公ルートヴィヒ・フリードリヒの娘ヘンリエッテ・ルイーゼ・フォン・ヴュルテンベルク(1623年 - 1650年)と結婚、3人の子を儲けた。

  • ゾフィー・エリーザベト(1643年 - 1643年)
  • アルベルティーネ・ルイーゼ(1646年 - 1670年)
  • ゾフィー・アマリー(1649年 - 1649年)

1651年、ゾフィー・マルガレーテ・フォン・エッティンゲン=エッティンゲン(1634年 - 1664年)と再婚、5人の子を儲けた。

1664年バーデン=ドゥルラハ辺境伯フリードリヒ6世の娘クリスティーネ・フォン・バーデン=ドゥルラハ(1645年 - 1705年)と3度目の結婚をした。子供はいない。

参考文献

  • M. Spindler, A. Kraus: Geschichte Frankens bis zum Ausgang des 18. Jahrhunderts, München 1997. ISBN 3-406-39451-5

この文献は、ドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。

外部リンク

先代
フリードリヒ
ブランデンブルク=
アンスバッハ辺境伯
1634年 - 1667年
次代
ヨハン・フリードリヒ