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[[Image:Bukhara01.jpg|thumb|200px|right|ブハラのカラーン・ミナレット]]
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'''[[カラハン朝]]'''(カラハンちょう、[[ペルシア語]] : '''قراخانيان''' Qarākhānīyān)は、かつて[[中央アジア]]に存在した[[イスラム王朝]]。中央アジアの[[テュルク]](トルコ)系の遊牧民族の中で最初に[[イスラム教|イスラーム化]]した集団と考えられている。
'''[[ヒヴァ・ハン国]]'''({{lang-uz|Xiva Xonligi}})は、[[1512年]]から[[1920年]]にかけて、[[アムダリヤ川|アムダリヤ]]の下流及び中流地域に栄えた[[テュルク系]][[イスラム王朝]]。[[シャイバーニー朝]]、[[シビル・ハン国]]と同じく[[ジョチ・ウルス]]の[[シバン (ジョチ・ウルス)|シバン]]家に属する王朝である。建国当初は[[クフナ・ウルゲンチ]](旧ウルゲンチ)を首都としていたが、17世紀前半から[[ヒヴァ]]に遷都し、遷都後の首都の名前に由来する「ヒヴァ・ハン国」の名称で呼ばれる。クフナ・ウルゲンチを首都に定めていた政権は「ウルゲンチ・ハン国」と呼ばれることもある。

カラハン朝はテュルク系の支配者として初めて、イラン系の民族・文化が中心的な地位を占めていた[[マー・ワラー・アンナフル]]を支配した国家である。カラハン朝がマー・ワラー・アンナフルを支配するイラン系の王朝[[サーマーン朝]]を滅ぼした後、[[タジキスタン共和国]]を除いてマー・ワラー・アンナフルにイラン系の国家が再建されることは無かった。

カラハン朝の時代は「[[西トルキスタン]]」の黎明期とも言え、[[パミール高原]]以西の地域にテュルク・イスラーム文化が確立された。カラハン朝が滅亡した後、カラハン朝の時代に芽生えたテュルク・イスラーム文化はモンゴル、[[ウズベク]]、[[カザフ]]などの西トルキスタンを征服した他の民族・文化を同化する。[[タリム盆地]]の[[ウイグル族]]はカラハン朝を自らの祖先が建てた国と見なし、王朝の君主[[サトゥク・ボグラ・ハン]]や[[マフムード・カーシュガリー]]、[[ユースフ・ハーッス・ハージブ]]らカラハン朝時代の学者の廟を建立した。

2019年5月29日 (水) 16:07時点における版

ブハラのカラーン・ミナレット

カラハン朝(カラハンちょう、ペルシア語 : قراخانيان Qarākhānīyān)は、かつて中央アジアに存在したイスラム王朝。中央アジアのテュルク(トルコ)系の遊牧民族の中で最初にイスラーム化した集団と考えられている。

カラハン朝はテュルク系の支配者として初めて、イラン系の民族・文化が中心的な地位を占めていたマー・ワラー・アンナフルを支配した国家である。カラハン朝がマー・ワラー・アンナフルを支配するイラン系の王朝サーマーン朝を滅ぼした後、タジキスタン共和国を除いてマー・ワラー・アンナフルにイラン系の国家が再建されることは無かった。

カラハン朝の時代は「西トルキスタン」の黎明期とも言え、パミール高原以西の地域にテュルク・イスラーム文化が確立された。カラハン朝が滅亡した後、カラハン朝の時代に芽生えたテュルク・イスラーム文化はモンゴル、ウズベクカザフなどの西トルキスタンを征服した他の民族・文化を同化する。タリム盆地ウイグル族はカラハン朝を自らの祖先が建てた国と見なし、王朝の君主サトゥク・ボグラ・ハンマフムード・カーシュガリーユースフ・ハーッス・ハージブらカラハン朝時代の学者の廟を建立した。