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'''マリーア・クリスティーナ・ディ・サヴォイア'''(Maria Cristina di Savoia, [[1812年]][[11月14日]] - [[1836年]][[1月21日]])は、[[両シチリア王国|両シチリア]]王[[フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世]]の最初の王妃。
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== 生涯 ==
[[サルデーニャ王国|サルデーニャ]]王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世]]と王妃[[マリーア・テレーザ・ダウストリア=エステ|マリーア・テレーザ]]の六女(第7子)として、[[カリャリ]]で生まれた。
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母方の祖父母はオーストリア=エステ大公の[[フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フェルディナント]]とマッサ=カッラーラ女公[[マリーア・ベアトリーチェ・デステ]]。フェルディナンドは、[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]と[[マリア・テレジア]]の3人目の息子。マリーア・ベアトリーチェは、モデナ公[[エルコレ3世・デステ]]とマッサ=カッラーラ女公[[マリーア・テレーザ・チーボ=マラスピーナ|マリーア・テレーザ]]の長女だった。
1832年11月21日、フェルディナンドと結婚した。1836年1月16日に長男フランチェスコ(のちの[[フランチェスコ2世 (両シチリア王)|フランチェスコ2世]])を生むが、5日後に急死した。

1832年11月21日、両シチリア王フェルディナンドと結婚した。マリーア・クリスティーナは20歳、フェルディナンドは22歳だった。

マリーア・クリスティーナは、美人ではあるが臆病で内気とも言われ、彼女にとって宮廷は心地よいところではなかった。フェルディナンドとの関係性は悪く、フェルディナンドは彼女の内気で神経質な性格に我慢ならなかった。

1836年1月16日に23歳で長男フランチェスコ(のちの[[フランチェスコ2世 (両シチリア王)|フランチェスコ2世]])を生むが、5日後に急死した。


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2019年4月11日 (木) 17:10時点における版

マリーア・クリスティーナ
Maria Cristina
両シチリア王妃

出生 1812年11月14日
サルデーニャの旗 サルデーニャ王国カリャリ
死去 (1836-01-21) 1836年1月21日(23歳没)
ナポリ
埋葬  
サンタ・キアラ聖堂
配偶者 両シチリアフェルディナンド2世
子女 フランチェスコ2世
父親 サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世
母親 マリーア・テレーザ・ダウストリア=エステ
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マリーア・クリスティーナ・ディ・サヴォイア(Maria Cristina di Savoia, 1812年11月14日 - 1836年1月21日)は、両シチリアフェルディナンド2世の最初の王妃。

生涯

サルデーニャヴィットーリオ・エマヌエーレ1世と王妃マリーア・テレーザの六女(第7子)として、カリャリで生まれた。

母方の祖父母はオーストリア=エステ大公のフェルディナントとマッサ=カッラーラ女公マリーア・ベアトリーチェ・デステ。フェルディナンドは、神聖ローマ皇帝フランツ1世マリア・テレジアの3人目の息子。マリーア・ベアトリーチェは、モデナ公エルコレ3世・デステとマッサ=カッラーラ女公マリーア・テレーザの長女だった。

1832年11月21日、両シチリア王フェルディナンドと結婚した。マリーア・クリスティーナは20歳、フェルディナンドは22歳だった。

マリーア・クリスティーナは、美人ではあるが臆病で内気とも言われ、彼女にとって宮廷は心地よいところではなかった。フェルディナンドとの関係性は悪く、フェルディナンドは彼女の内気で神経質な性格に我慢ならなかった。

1836年1月16日に23歳で長男フランチェスコ(のちのフランチェスコ2世)を生むが、5日後に急死した。