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{{基礎情報 公家
'''葉室 定嗣'''(はむろ さだつぐ、[[承元]]2年([[1208年]] - [[文永]]9年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]([[1272年]][[7月22日]]))は、[[鎌倉時代]]中期の[[公卿]]。[[藤原北家]][[勧修寺流]]、[[葉室光親]]の次男。母は[[吉田定経]]の娘。初名を光嗣、次いで高嗣、定嗣と改名。子に[[葉室定藤|定藤]]、[[吉田経長]]室。官位は[[正三位]]・[[中納言|権中納言]]。
| 氏名 = 葉室定嗣
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| 画像説明 =
| 時代 = [[鎌倉時代]]中期
| 生誕 = [[承元]]2年([[1208年]])
| 死没 = [[文永]]9年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]([[1272年]][[7月22日]])
| 改名 = 光嗣(初名)→高嗣→定嗣→定然(法名)
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| 子 = [[葉室定藤|定藤]]、[[吉田経長]]室
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'''葉室 定嗣'''(はむろ さだつぐ)は、[[鎌倉時代]]中期の[[公卿]]。[[藤原北家]][[勧修寺流]]、[[葉室光親]]の次男。母は[[吉田定経]]の娘。初名を光嗣、次いで高嗣、定嗣と改名。[[官位]]は[[正三位]]・[[中納言|権中納言]]。
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== 経歴 ==
[[建保]]2年([[1214年]])に叙爵。以後[[但馬国]]、[[美濃国]]などの[[国司]]や[[蔵人頭]]を歴任し、[[仁治]]3年([[1242年]])に[[従三位]]。[[宝治]]2年([[1248年]])には正三位、権中納言に昇る。[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]の[[院司]]として重用され、院と[[六波羅探題]]との間に立って両者の調整役を務めた。


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2019年4月6日 (土) 05:39時点における版

 
葉室定嗣
時代 鎌倉時代中期
生誕 承元2年(1208年
死没 文永9年6月26日1272年7月22日
改名 光嗣(初名)→高嗣→定嗣→定然(法名)
官位 正三位権中納言
氏族 葉室家
父母 父:葉室光親、母:吉田定経
定藤吉田経長
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葉室 定嗣(はむろ さだつぐ)は、鎌倉時代中期の公卿藤原北家勧修寺流葉室光親の次男。母は吉田定経の娘。初名を光嗣、次いで高嗣、定嗣と改名。官位正三位権中納言

経歴

建保2年(1214年)に叙爵。以後但馬国美濃国などの国司蔵人頭を歴任し、仁治3年(1242年)に従三位宝治2年(1248年)には正三位、権中納言に昇る。後嵯峨上皇院司として重用され、院と六波羅探題との間に立って両者の調整役を務めた。

建長2年(1250年)に致仕弘長年間(1261年-1263年)には出家し、法名を定然と称したとされる。

その日記『葉黄記』は、朝廷側の立場から鎌倉中期という時代を活写した史料として貴重である。また晩年には浄住寺の中興を手がけたことでも知られている。