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[[1585年]]、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]によって[[但馬]]国内に15000石を与えられる。その後は秀吉の家臣として、九州征伐や[[小田原征伐|小田原攻め]]に従軍した。そして[[堺市|堺]]に隠居したという。
[[1585年]]、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]によって[[但馬]]国内に15000石を与えられる。その後は秀吉の家臣として、九州征伐や[[小田原征伐|小田原攻め]]に従軍した。そして[[堺市|堺]]に隠居したという。


[[福島正則]]の姉を娶り、その子・正之は正則の養嗣子となっている。
[[福島正則]]の姉を娶り、その子・正之は正則の養嗣子(後に廃嫡)となっている。


==関連項目==
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2006年8月15日 (火) 16:37時点における版

別所 重宗べっしょ しげむね享禄2年(1529年) - 天正19年6月6日1591年7月26日))は戦国時代安土桃山時代の武将・大名。別所就治の三男。重棟とも。子に別所吉治福島正之

甥の別所長治が家督を継ぐと、その補佐役となった。織田信長に早くから通じていたが、長治が信長に反逆すると、これに反対して自ら浪人となった。

1585年羽柴秀吉によって但馬国内に15000石を与えられる。その後は秀吉の家臣として、九州征伐や小田原攻めに従軍した。そしてに隠居したという。

福島正則の姉を娶り、その子・正之は正則の養嗣子(後に廃嫡)となっている。

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