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'''天野 康宗'''(あまの やすむね、[[天正]]2年([[1574年]]) - [[正保]]2年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]([[1645年]][[4月17日]]))は[[江戸時代]]前期の武士。[[駿河国|駿河]][[興国寺藩]]の嫡子。[[天野康景]]の長男。母は牛田行正の娘。正室は[[安部信勝]]の娘。対馬守。
'''天野 康宗'''(あまの やすむね、[[天正]]2年([[1574年]]) - [[正保]]2年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]([[1645年]][[4月17日]]))は[[江戸時代]]前期の武士。[[駿河国|駿河]][[興国寺藩]]・藩主[[天野康景]]の長男で嫡子。母は牛田行正の娘。正室は[[安部信勝]]の娘。対馬守。


父の康景は[[徳川家康]]の側近として活躍し、[[本多重次]]や[[高力清長]]と共に岡崎三奉行と称された。家康の関東移封後は[[下総国]]内で3000石を与えられ、同時に江戸町奉行に就任。[[慶長]]6年([[1601年]])には1万石を与えられて興国寺藩主となった。しかし、慶長12年([[1607年]])に[[本多正純]]と対立、康宗は父に従って城地を放棄し出奔したため、[[改易]]に処せられた。その後、康宗は[[寛永]]5年([[1628年]])に赦免されて1000俵を与えられ、天野氏は[[旗本]]として存続している。
父の康景は[[徳川家康]]の側近として活躍し、[[本多重次]]や[[高力清長]]と共に岡崎三奉行と称された。家康の関東移封後は[[下総国]]内で3000石を与えられ、同時に江戸町奉行に就任。[[慶長]]6年([[1601年]])には1万石を与えられて興国寺藩主となった。しかし、慶長12年([[1607年]])に[[本多正純]]と対立、康宗は父に従って城地を放棄し出奔したため、[[改易]]に処せられた。その後、康宗は[[寛永]]5年([[1628年]])に赦免されて1000俵を与えられ、天野氏は[[旗本]]として存続している。

2018年8月22日 (水) 15:18時点における最新版

天野 康宗(あまの やすむね、天正2年(1574年) - 正保2年3月21日1645年4月17日))は江戸時代前期の武士。駿河興国寺藩・藩主天野康景の長男で嫡子。母は牛田行正の娘。正室は安部信勝の娘。対馬守。

父の康景は徳川家康の側近として活躍し、本多重次高力清長と共に岡崎三奉行と称された。家康の関東移封後は下総国内で3000石を与えられ、同時に江戸町奉行に就任。慶長6年(1601年)には1万石を与えられて興国寺藩主となった。しかし、慶長12年(1607年)に本多正純と対立、康宗は父に従って城地を放棄し出奔したため、改易に処せられた。その後、康宗は寛永5年(1628年)に赦免されて1000俵を与えられ、天野氏は旗本として存続している。