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[[文禄・慶長の役]]では、鍋島直茂・勝茂父子に従い、一隊の将として、[[朝鮮半島]]に遠征する。
[[文禄・慶長の役]]では、鍋島直茂・勝茂父子に従い、一隊の将として、[[朝鮮半島]]に遠征する。


帰国後、伯母である陽泰院の威光もあり、藩の中枢に抜擢され、家禄1,250石を拝領し、家老に就任。そして、[[慶長]]5年([[1600年]])頃から、一族の[[石井重次|石井孫左衛門尉重次]]らと共に、[[蓮池城 (肥前国)|蓮池城]]の城将となり、蒲田江出城番をつとめた。
帰国後、伯母である[[陽泰院]]の威光もあり、藩の中枢に抜擢され、家禄1,250石を拝領し、家老に就任。そして、[[慶長]]5年([[1600年]])頃から、一族の[[石井重次|石井孫左衛門尉重次]]らと共に、[[蓮池城 (肥前国)|蓮池城]]の城将となり、蒲田江出城番をつとめた。


藩財政の窮乏を憂い、苦心して財政再建5ヵ年計画私案を書き上げ、藩主勝茂に上程するも、財政再建には失敗している。
藩財政の窮乏を憂い、苦心して財政再建5ヵ年計画私案を書き上げ、藩主勝茂に上程するも、財政再建には失敗している。

2017年5月4日 (木) 18:53時点における版

 
石井 茂成
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛永10年12月6日1634年1月15日
改名 成元
別名 又左衛門尉
墓所 佐賀県佐賀市本庄町鹿子の常照院
官位 修理亮(受領名)
幕府 江戸幕府
主君 龍造寺政家鍋島直茂勝茂直澄
氏族 肥前石井氏
父母 父:石井賢次、母:常徳院(山田氏の娘)
兄弟 忠明百武茂兼松瀬孫介茂成石井信忠
正室:石井景弘の娘
清次賢顕七郎右衛門沢辺常寿
石井正純室、鍋島茂実
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石井 茂成(いしい しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将佐賀藩鍋島氏の家老。藩祖鍋島直茂の正室陽泰院の甥で、初代藩主鍋島勝茂の従兄にあたる。

生涯

肥前国戦国大名龍造寺氏の家老石井伊豆守賢次(忠張)の四男として生まれる。母は常徳院(山田氏)。正室は龍造寺氏の家老石井但馬守景弘の娘。通称は、又左衛門尉、修理亮。

は当初は「 成元 」(なりもと)で、後に、主君であり従弟でもある鍋島勝茂より偏諱を授けられて、「 茂成 」と改める。

父や兄たちと共に、龍造寺隆信政家父子に仕えていたが、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いの後、伯父である鍋島直茂を支えた。

文禄・慶長の役では、鍋島直茂・勝茂父子に従い、一隊の将として、朝鮮半島に遠征する。

帰国後、伯母である陽泰院の威光もあり、藩の中枢に抜擢され、家禄1,250石を拝領し、家老に就任。そして、慶長5年(1600年)頃から、一族の石井孫左衛門尉重次らと共に、蓮池城の城将となり、蒲田江出城番をつとめた。

藩財政の窮乏を憂い、苦心して財政再建5ヵ年計画私案を書き上げ、藩主勝茂に上程するも、財政再建には失敗している。

その他、鍋島氏の監視下にあった龍造寺高房の遺児(庶子)伯庵が、佐賀城下を出奔したときには、勝茂の命を受けて伯庵を追いかけ、城下に戻るように説得を試みた。

晩年は、勝茂の五男鍋島直澄蓮池藩を立てると、その付家老として従い、蓮池藩の基礎を築くために尽力した。

茂成の死後、蓮池藩家老職と家禄のうち900石は、嫡男又左衛門清次が継ぎ、残りの家禄は、佐賀本藩に仕えた次男六郎左衛門賢顕、三男七郎右衛門が継いだ。

なお、『葉隠』の著述者山本常朝の祖父中野清明が浪人している際、石井氏の領地に流れてきた清明を賢次・茂成父子が面会し、清明の器量を見込んで、鍋島直茂に推挙したと伝わり、以降、中野氏は佐賀藩の重臣として発展する。

子孫