「アルベルト・ブロッホ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Coptic Light (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし |
Coptic Light (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし |
||
2行目: | 2行目: | ||
==生涯と作風== |
==生涯と作風== |
||
ブロッホの両親は[[1869年]]に[[ボヘミア]]からアメリカ合衆国に移り住んだ。ブロッホはアメリカでセントルイス美術学校へ入学し、そのかたわら「ザ・ミラー」紙のイラストレーターとして働いた。このときの彼の作風は[[ユーゲントシュティール|ユーゲントシュティル]]を特徴としていた。[[1908年]]以降彼は[[ミュンヘン]]に住み、そこで芸術家サークル[[青騎士]]に加わった。また、[[シュトゥルム画廊]]によって欧州全土で彼の展覧会が催されている。 |
ブロッホの両親は[[1869年]]に[[ボヘミア]]からアメリカ合衆国に移り住んだ。ブロッホはアメリカでセントルイス美術学校へ入学し、そのかたわら「ザ・ミラー」紙のイラストレーターとして働いた。このときの彼の作風は[[ユーゲント・シュティール|ユーゲントシュティル]]を特徴としていた。[[1908年]]以降彼は[[ミュンヘン]]に住み、そこで芸術家サークル[[青騎士]]に加わった。また、[[シュトゥルム画廊]]によって欧州全土で彼の展覧会が催されている。 |
||
彼の絵は、風景や町の様子、肖像画、サーカスの様子を多く主題としたが、[[キュビスム]]へとスタイルを変えていった。ブロッホは[[1921年]]に合衆国へ戻り、[[1923年]]には[[カンザス大学]]で教授職を得た。1961年、彼はカンザスで亡くなった。 |
彼の絵は、風景や町の様子、肖像画、サーカスの様子を多く主題としたが、[[キュビスム]]へとスタイルを変えていった。ブロッホは[[1921年]]に合衆国へ戻り、[[1923年]]には[[カンザス大学]]で教授職を得た。1961年、彼はカンザスで亡くなった。 |
||
10行目: | 10行目: | ||
==関連項目== |
==関連項目== |
||
*[[青騎士]] |
*[[青騎士]] |
||
*[[ユーゲントシュティール|ユーゲントシュティル]] |
*[[ユーゲント・シュティール|ユーゲントシュティル]] |
||
*[[シュトゥルム画廊]] |
*[[シュトゥルム画廊]] |
||
*[[キュビスム]] |
*[[キュビスム]] |
2017年1月26日 (木) 13:29時点における版
アルベルト・ブロッホ(Albert Bloch、1882年8月2日アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス – 1961年12月9日、アメリカ合衆国カンザス州ローレンス)はドイツ系アメリカ人の画家、翻訳家。
生涯と作風
ブロッホの両親は1869年にボヘミアからアメリカ合衆国に移り住んだ。ブロッホはアメリカでセントルイス美術学校へ入学し、そのかたわら「ザ・ミラー」紙のイラストレーターとして働いた。このときの彼の作風はユーゲントシュティルを特徴としていた。1908年以降彼はミュンヘンに住み、そこで芸術家サークル青騎士に加わった。また、シュトゥルム画廊によって欧州全土で彼の展覧会が催されている。
彼の絵は、風景や町の様子、肖像画、サーカスの様子を多く主題としたが、キュビスムへとスタイルを変えていった。ブロッホは1921年に合衆国へ戻り、1923年にはカンザス大学で教授職を得た。1961年、彼はカンザスで亡くなった。
また翻訳家としてブロッホは、カール・クラウスやフランツ・ヴェルフェル、ゲーテの作品を英訳している。
関連項目
- 青騎士
- ユーゲントシュティル
- シュトゥルム画廊
- キュビスム
- バーナード・ブロック - アルベルト・ブロッホの息子で言語学者。日本語を研究した。