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'''斎藤 宗円'''(さいとう そうえん、[[康応]]元年([[1389年]]) - [[宝徳]]2年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]([[1450年]][[10月6日]]))は、[[室町時代]]の[[武将]]。[[美濃国|美濃]][[守護代]]。宗円は入道名で諱は利明(としあき)か。父は[[斎藤祐具]]。子に[[斎藤利永|利永]]、[[斎藤妙椿|妙椿]]。[[越前国|越前守]]と称す。法名は月庭宗円居士。
'''斎藤 宗円'''(さいとう そうえん、[[康応]]元年([[1389年]]) - [[宝徳]]2年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]([[1450年]][[10月6日]]))は、[[室町時代]]の[[武将]]。[[美濃国|美濃]][[守護代]]。宗円は入道名で諱は利明(としあき)か。父は[[斎藤祐具]]。子に[[斎藤利永|利永]]、[[斎藤妙椿|妙椿]]、[[斎藤利任|利任]]<ref>妙椿と同一人物との説もある。</ref>、[[周倫]]。[[越前国|越前守]]と称す。法名は月庭宗円居士。


[[文安]]元年([[1444年]])閏6月19日、京都の土岐屋形において[[土岐氏]]の[[守護代]]である[[富島氏]]を殺害する。この時、逃亡に成功した富島八郎左衛門は、土岐氏被官3名を捕らえて殺害、守護代邸に放火した後、[[管領]][[畠山持国]]に事の次第を訴えたが、相手にしてもらえなかったため、一族郎党挙げて美濃に下国、7月10日、垂井で土岐軍と戦い勝利する。更に8月6日、10日の両日、斎藤氏の館に攻め寄せたが、守護[[土岐持益 (守護)|土岐持益]]及び宗円が着陣すると戦闘は小康状態となった。この後、富島氏に替わり美濃守護代となる。
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2017年1月20日 (金) 15:24時点における版

斎藤 宗円(さいとう そうえん、康応元年(1389年) - 宝徳2年9月1日1450年10月6日))は、室町時代武将美濃守護代。宗円は入道名で諱は利明(としあき)か。父は斎藤祐具。子に利永妙椿利任[1]周倫越前守と称す。法名は月庭宗円居士。

文安元年(1444年)閏6月19日、京都の土岐屋形において土岐氏守護代である富島氏を殺害する。この時、逃亡に成功した富島八郎左衛門は、土岐氏被官3名を捕らえて殺害、守護代邸に放火した後、管領畠山持国に事の次第を訴えたが、相手にしてもらえなかったため、一族郎党挙げて美濃に下国、7月10日、垂井で土岐軍と戦い勝利する。更に8月6日、10日の両日、斎藤氏の館に攻め寄せたが、守護土岐持益及び宗円が着陣すると戦闘は小康状態となった。この後、富島氏に替わり美濃守護代となる。

文安3年(1446年)7月5日、宗円は守護方の軍勢を率いて垂井付近の富島氏の陣を攻め、討死する者数百人という激戦を展開した。宝徳元年(1449年)9月10日にも再び富島氏との合戦が起きるが勝敗はつかなかった。

宝徳2年(1450年)9月1日、京都の山名氏邸から守護代邸に帰る途中、近衛油小路で富島氏の手の者により暗殺された。享年62。下剋上を行った者として京都市民の間では評判が悪く、その死を悼む者は少なかったという。

関連項目

  1. ^ 妙椿と同一人物との説もある。