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義理の子:[[英布]]〔娘婿〕<br />
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子孫:[[呉綱]]<ref>『[[魏書 (三国)|魏書]]』諸葛誕伝が引く『[[世語]]』よると、呉の16世孫で、[[魏 (三国)|魏]]の[[諸葛誕]]の[[長史]]を勤めたと記されている。</ref>
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秦の番陽県令であり、長江・番陽湖一帯の人々に慕われ、「番君」と呼ばれた。[[陳勝・呉広の乱]]に始まる秦末の乱の際、[[英布]]は呉&#x82AE;に従い、呉&#x82AE;は自分の娘を英布の妻とし、[[越]]の人間を率いて秦への反乱に加担した。沛公劉邦が南陽を攻めた際、劉邦は呉&#x82AE;の将の梅鋗と遭遇し、一緒に南陽の県を攻め落とした。
秦の番陽県令であり、長江・番陽湖一帯の人々に慕われ、「番君」と呼ばれた。[[陳勝・呉広の乱]]に始まる秦末の乱の際、[[英布]]は呉に従い、呉は自分の娘を英布の妻とし、[[越]]の人間を率いて秦への反乱に加担した。沛公劉邦が南陽を攻めた際、劉邦は呉の将の梅鋗と遭遇し、一緒に南陽の県を攻め落とした。


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高祖元年([[紀元前206年]])、関中が劉邦、[[項籍|項羽]]によって落とされ秦が滅び、項羽が[[義帝]]を奉じて各地に王を立てると、越の人間を率いて功績のあった呉は衡山王に封じられ、梅鋗は十万戸の侯に封じられた。その後、項羽は九江王英布と衡山王呉に命じ、義帝を殺させた(『史記』項羽本紀)。


時期は不明だが呉&#x82AE;は項羽によって衡山王を剥奪され、番君に降格された。その後、離反して劉邦に与した。英布と同時期のことであるのか、あるいは呉&#x82AE;が英布を唆して劉邦陣営に付いたのかは不明だが、劉邦は呉&#x82AE;の功績を高く評価している。
時期は不明だが呉は項羽によって衡山王を剥奪され、番君に降格された。その後、離反して劉邦に与した。英布と同時期のことであるのか、あるいは呉が英布を唆して劉邦陣営に付いたのかは不明だが、劉邦は呉の功績を高く評価している。


高祖5年([[紀元前202年]])、漢王劉邦が項羽を滅ぼすと、楚王[[韓信]]、韓王[[韓王信|韓信]]、淮南王英布、梁王[[彭越]]、趙王張耳、燕王[[臧荼]]と共に劉邦に「[[皇帝]]」の尊号を奉った。同年、呉芮は劉邦により長沙王(異姓七王の一人)に立てられ、その年に死亡した。文王と[[諡]]された。また、高祖劉邦は後に呉&#x82AE;の忠を褒め称え、律令に記させている。
高祖5年([[紀元前202年]])、漢王劉邦が項羽を滅ぼすと、楚王[[韓信]]、韓王[[韓王信|韓信]]、淮南王英布、梁王[[彭越]]、趙王張耳、燕王[[臧荼]]と共に劉邦に「[[皇帝]]」の尊号を奉った。同年、呉芮は劉邦により長沙王(異姓七王の一人)に立てられ、その年に死亡した。文王と[[諡]]された。また、高祖劉邦は後に呉の忠を褒め称え、律令に記させている。


長沙王は子の成王呉臣が継いだ。呉臣は在位中、反乱を起こすも敗れて逃げてきた英布を殺している。その後も長沙国は劉邦が「劉氏でなければ王としない」と盟約を結んだことの例外となり、哀王呉回、共王呉右、靖王呉と継承され、長沙国は[[文帝 (漢)|文帝]]の後7年([[紀元前157年]])に呉が後継ぎを残さず死亡するまで続いた。
長沙王は子の成王呉臣が継いだ。呉臣は在位中、反乱を起こすも敗れて逃げてきた英布を殺している。その後も長沙国は劉邦が「劉氏でなければ王としない」と盟約を結んだことの例外となり、哀王呉回、共王呉右、靖王呉と継承され、長沙国は[[文帝 (漢)|文帝]]の後7年([[紀元前157年]])に呉が後継ぎを残さず死亡するまで続いた。


== 脚注 ==
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巻19恵景間侯者年表</span>
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巻1下高帝紀下、巻13異姓諸侯王表、巻31項籍伝、巻34英布伝、同呉&#x82AE;伝</span>
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2017年1月9日 (月) 04:20時点における版

呉 芮(ご ぜい、? - 紀元前202年、在位:紀元前202年)は、末から前漢にかけての群雄。初代長沙王で、漢代初めに高祖劉邦を皇帝に推戴した異姓諸侯王のうち、趙王張耳と並んで天寿を全うして子孫に王位を伝え、長沙王はその中で最も長く続いた王となった。

略歴

姓名 呉芮
時代 代 - 前漢時代
生没年 生年不詳 - 前202年漢太祖1年)
字・別号 番君(綽名)
本貫・出身地等 〔不詳〕
職官 番陽県令〔秦〕→〔地方軍頭領〕
爵位・号等 衡山王〔楚〕→番君〔楚〕

→長沙王〔漢〕→長沙文王〔沒後〕

陣営・所属等 〔独立勢力〕→項羽劉邦
家族・一族 子:呉臣 呉淺 孫:呉回

義理の子:英布〔娘婿〕
子孫:呉綱[1]

秦の番陽県令であり、長江・番陽湖一帯の人々に慕われ、「番君」と呼ばれた。陳勝・呉広の乱に始まる秦末の乱の際、英布は呉芮に従い、呉芮は自分の娘を英布の妻とし、の人間を率いて秦への反乱に加担した。沛公劉邦が南陽を攻めた際、劉邦は呉芮の将の梅鋗と遭遇し、一緒に南陽の県を攻め落とした。

高祖元年(紀元前206年)、関中が劉邦、項羽によって落とされ秦が滅び、項羽が義帝を奉じて各地に王を立てると、越の人間を率いて功績のあった呉芮は衡山王に封じられ、梅鋗は十万戸の侯に封じられた。その後、項羽は九江王英布と衡山王呉芮に命じ、義帝を殺させた(『史記』項羽本紀)。

時期は不明だが呉芮は項羽によって衡山王を剥奪され、番君に降格された。その後、離反して劉邦に与した。英布と同時期のことであるのか、あるいは呉芮が英布を唆して劉邦陣営に付いたのかは不明だが、劉邦は呉芮の功績を高く評価している。

高祖5年(紀元前202年)、漢王劉邦が項羽を滅ぼすと、楚王韓信、韓王韓信、淮南王英布、梁王彭越、趙王張耳、燕王臧荼と共に劉邦に「皇帝」の尊号を奉った。同年、呉芮は劉邦により長沙王(異姓七王の一人)に立てられ、その年に死亡した。文王とされた。また、高祖劉邦は後に呉芮の忠を褒め称え、律令に記させている。

長沙王は子の成王呉臣が継いだ。呉臣は在位中、反乱を起こすも敗れて逃げてきた英布を殺している。その後も長沙国は劉邦が「劉氏でなければ王としない」と盟約を結んだことの例外となり、哀王呉回、共王呉右、靖王呉著と継承され、長沙国は文帝の後7年(紀元前157年)に呉著が後継ぎを残さず死亡するまで続いた。

脚注

  1. ^ 魏書』諸葛誕伝が引く『世語』よると、呉芮の16世孫で、諸葛誕長史を勤めたと記されている。

参考文献

巻19恵景間侯者年表

巻1下高帝紀下、巻13異姓諸侯王表、巻31項籍伝、巻34英布伝、同呉芮伝