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== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[共和政ローマ|共和政]]末期の[[古代ローマ]]においては、[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]と属州[[ガリア・キサルピナ]]の境界線の役割を果たしていた。[[ローマ軍団|軍団]]を連れてこの川を越え南下することは法により禁じられており、その南下行為はすなわち共和国に対する反逆とみなされた。
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一般にルビコン川の名前は、[[紀元前49年]][[1月10日]]、[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]において[[ユリウス・カエサル]]が軍を率いてこの川を渡った故事で知られる。この際に「'''[[賽は投げられた]]'''」({{lang|la|'''Alea jacta est'''}}, アーレア・ヤクタ・エスト)と檄を発したことは余りにも有名である。以来、「ルビコン川を渡る」は、以後の運命を決め後戻りのできないような重大な決断と行動をすることの例えとして使われている。
一般にルビコン川の名前は、[[紀元前49年]][[1月10日]]、[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]において[[ユリウス・カエサル]]が軍を率いてこの川を渡った故事で知られる。この際に「'''[[賽は投げられた]]'''」({{lang|la|'''Alea jacta est'''}}, アーレア・ヤクタ・エスト)と檄を発したことは余りにも有名である。以来、「ルビコン川を渡る」は、以後の運命を決め後戻りのできないような重大な決断と行動をすることの例えとして使われている。

2014年7月14日 (月) 07:40時点における版

ルビコン川
ルビコン川の流路(青線)
ルビコン川の流路(青線)
延長 29 km
水源の標高 250 m
河口・合流先 イタリアの旗 イタリア ガッテーオ・ア・マーレアドリア海
流域 イタリアの旗 イタリア エミリア=ロマーニャ州
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ルビコン川Rubicon)は、イタリア北東部のエミリア=ロマーニャ州を流れ、アドリア海に注ぐ。「ルビコン川」はラテン語での呼び名であり、現代のイタリア語ではルビコーネ川Rubicone)と呼ばれている。

古代ローマユリウス・カエサルの言葉「賽は投げられた」で有名だが、その歴史的著名度に比べて大河ではない。

地理

アペニン山脈に源を発し、エミリア=ロマーニャ州の南部を流れる。リゾート地として開発されているガッテーオ・ア・マーレ(ガッテーオの分離集落)とサヴィニャーノ・ア・マーレ(サヴィニャーノ・スル・ルビコーネの分離集落)の間でアドリア海に注ぐ。全長は50キロ弱と、それほど長くはない川である。

一時は乱開発が進んだことなどにより、エミリア=ロマーニャ州で最も汚れた川の一つに数えられていたが、現在ではきれいになっている。

歴史

共和政末期の古代ローマにおいては、東端のルビコン川と西端のアルノ川を結ぶラインがイタリア本土と属州ガリア・キサルピナの境界線の役割を果たしていた。軍団を連れてこの川を越え南下することは法により禁じられており、その南下行為はすなわち共和国に対する反逆とみなされた。

一般にルビコン川の名前は、紀元前49年1月10日ローマ内戦においてユリウス・カエサルが軍を率いてこの川を渡った故事で知られる。この際に「賽は投げられた」(Alea jacta est, アーレア・ヤクタ・エスト)と檄を発したことは余りにも有名である。以来、「ルビコン川を渡る」は、以後の運命を決め後戻りのできないような重大な決断と行動をすることの例えとして使われている。

文化・観光

ガッテーオ・ア・マーレから右岸沿いに小道があり、堤防に沿って南西の上流に続く。いくつかの村があるが、約25kmほどさかのぼるとサヴィニャーノという町に着く。鉄道のガードをくぐると、広い道に突き当たるが、右手にある橋を渡らず、そのまま細い右岸の道をたどる。200mほどで行き止まりだが、突き当たりにカエサルの立像がある。

右には石造りの橋があり、修復されているが、川へ降りて橋をよく見るとアーチの根本部分に、古代の石積みが保存されている。下流は湿地帯だが、さかのぼるにつれて川岸もしっかりとしてくる。サヴィニャーノ付近は峡谷状で両岸は岩である。カエサルの軍が橋を架けるのも容易だったと思える。

カエサルの像は地元の研究者やロータリークラブが立てたもので、確証はないがカエサルはこの橋を渡った可能性が強いと考えられている。

関連項目