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* [[柴辻俊六]] 編『武田信虎のすべて』([[新人物往来社]]、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6
* [[柴辻俊六]] 編『武田信虎のすべて』([[新人物往来社]]、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6
* [[平山優 (歴史学者)|平山優]]『穴山武田氏 [[中世武士選書]]5』戎光祥出版、2011年
* [[平山優 (歴史学者)|平山優]]『穴山武田氏 [[中世武士選書]]5』(戎光祥出版、2011年)
;史料
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* 『武将文苑』
* 『武将文苑』

2014年6月4日 (水) 07:18時点における版

 
穴山 信風/穴山 信綱
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 享禄4年3月12日1531年3月30日
別名 信風、信綱、義貞
墓所 山梨県身延町竜雲寺
官位 甲斐
幕府 室町幕府
主君 今川氏親武田信虎
氏族 穴山氏
父母 父:穴山信懸、母:不詳
兄弟 信風信永信堯清五郎
信友
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穴山 信風(あなやま のぶかぜ)は、戦国時代武将甲斐武田家家臣。甲斐河内の国衆である穴山家の当主。穴山信君の祖父。

生涯

諸系図に拠れば、穴山信懸の子とされる[1]。諱に関しては諸系図では信風とし、『甲斐国志』では典拠は不明であるが信綱(のぶつな)としている[2]。近年、高野山桜地院から発見された年未詳5月14日付の文書(『武将文苑』、『戦国遺文 武田氏編』 - 4315号)では出家後の法号で武田甲斐入道義貞と名乗っていた事が確認されている。また、高野山成慶院の寛文6年(1666年)成立の『檀那御寄進状并消息』でも「義貞」の諱が記録されている。受領名は甲斐守[1]

穴山氏では永正10年(1513年)5月に父の信懸が信風の兄弟である清五郎に暗殺される事件が発生しており(『勝山記』)、その清五郎を殺害して家督を相続した[3][1]。信風は駿河今川氏親に従属し、永正12年(1515年)の今川軍による甲斐侵攻にも協力した(『改訂南部町誌』上巻)。

今川氏親が遠江情勢のために武田信虎と和睦して甲斐から退去すると[4]、信虎に攻められて大永元年(1521年)に降伏し、信虎に従属した[1]

享禄4年(1531年)3月12日に死去し[1]、家督は嫡子の信友が継いだ[5]

墓所は山梨県身延町の竜雲寺。

脚注

註釈

出典

  1. ^ a b c d e 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.189
  2. ^ 平山(2011)、p.22
  3. ^ 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.59
  4. ^ 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.60
  5. ^ 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.190

参考文献

書籍
史料
  • 『武将文苑』
  • 『勝山記』