「エウメネス3世」の版間の差分

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'''エウメネス3世'''(Eumenes III)は、かつての名前を'''アリストニコス'''といい、[[ペルガモン王国]]の王位詐称者である。
'''エウメネス3世'''({{lang-grc|Ευμένης Γ'}}, Eumenes III)は、かつての名前を'''アリストニコス'''といい、[[アッタロス朝]](ペルガモン王国の王位詐称者である。


ペルガモン王国の[[アッタロス3世]]は[[紀元前133年]]に死去すると、王国を[[共和制ローマ]]に遺贈した。しかしローマの主張が遅かったため、アリストニコスはアッタロス3世の父である先代の王[[エウメネス2世]]の[[非嫡出子]]であるとして王位を主張し、エウメネス3世と名乗った。
ペルガモン王国の[[アッタロス3世]]は[[紀元前133年]]に死去すると、王国を[[共和制ローマ]]に遺贈した。しかしローマの主張が遅かったため、アリストニコスはアッタロス3世の父である先代の王[[エウメネス2世]]の[[非嫡出子]]であるとして王位を主張し、エウメネス3世と名乗った。


当初、彼は自由を約束することでギリシア沿岸の都市から支援を得ようとしたが、これに失敗すると彼は国内の[[奴隷]]や[[農奴制|農奴]]に自由を約束して支援を得ようとした。彼がどの程度、社会革命家だったのかまた王朝の王位競争者だったのかは分かっていない。彼は、[[ティベリウス・グラックス]]の支援者で[[ストア派]]哲学者の[[ガイウス・ブロッシウス]]とともに全てが自由のヘリオポリスと呼ばれる状態を見つけることを宣言した。彼に対する最初の軍勢は、[[紀元前131年]]に[[プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディェス・ムキアヌス]]に率いられたものだった。彼は殺害されたが、エウメネス3世は[[紀元前129年]]前[[執政官]][[マルクス・ペルペルナ]]の軍に破れて捕虜となった。投降後、彼はローマ市内を引き回され、[[絞殺刑]]に処せられた。
当初、彼は自由を約束することでギリシア沿岸の都市から支援を得ようとしたが、これに失敗すると彼は国内の[[奴隷]]や[[農奴制|農奴]]に自由を約束して支援を得ようとした。彼がどの程度、社会革命家だったのかまた王朝の王位競争者だったのかは分かっていない。彼は、[[ティベリウス・グラックス]]の支援者で[[ストア派]]哲学者の{{仮リンク|ガイウス・ブロッシウス|en|Gaius Blossius}}とともに全てが自由のヘリオポリスと呼ばれる状態を見つけることを宣言した。
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[[紀元前129年]]前[[執政官]]{{仮リンク|マルクス・ペルペルナ|en|Marcus Perperna}}の軍にエウメネス3世は破れて捕虜となった。投降後、彼はローマ市内を引き回され、[[絞殺刑]]に処せられた。


==参考文献==
==参考文献==
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*[[グナイウス・ポンペイウス・トログス]]『地中海世界史』(2004年、[[京都大学学術出版会]])
*[[グナイウス・ポンペイウス・トログス]]『地中海世界史』(2004年、[[京都大学学術出版会]])


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2014年4月18日 (金) 16:25時点における版

エウメネス3世古代ギリシア語: Ευμένης Γ', Eumenes III)は、かつての名前をアリストニコスといい、アッタロス朝(ペルガモン王国)の王位詐称者である。

ペルガモン王国のアッタロス3世紀元前133年に死去すると、王国を共和制ローマに遺贈した。しかしローマの主張が遅かったため、アリストニコスはアッタロス3世の父である先代の王エウメネス2世非嫡出子であるとして王位を主張し、エウメネス3世と名乗った。

当初、彼は自由を約束することでギリシア沿岸の都市から支援を得ようとしたが、これに失敗すると彼は国内の奴隷農奴に自由を約束して支援を得ようとした。彼がどの程度、社会革命家だったのかまた王朝の王位競争者だったのかは分かっていない。彼は、ティベリウス・グラックスの支援者でストア派哲学者のガイウス・ブロッシウス英語版とともに全てが自由のヘリオポリスと呼ばれる状態を見つけることを宣言した。

紀元前131年執政官プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌス がローマ軍を率いて遠征したが、エウメネス3世はクラッススを討ち取った。

紀元前129年、前執政官マルクス・ペルペルナの軍にエウメネス3世は破れて捕虜となった。投降後、彼はローマ市内を引き回され、絞殺刑に処せられた。

参考文献

先代
アッタロス3世
アッタロス朝の君主
紀元前133年 - 紀元前129年
次代
ローマ領アシア属州へ移行