「アプリオリ」の版間の差分

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2013年3月29日 (金) 19:20時点における版

アプリオリとは、経験認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念カントおよび新カント学派の用法。ラテン語a prioriに由来する。

概要

カントによれば時間と空間はアプリオリな概念である。なぜならこの二つは、あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念だからである[1]

なお、この二つは自然に想像される時間あるいは空間ではなく形式的である。感覚的には太陽地球を回っているように「感じられる」としても、そうではないという比喩をカントも援用していることから、ある新しい構成[2]の為に、それらは純粋直観に与えられる、という比喩表現を許されたい。この空間は、物理空間に先立つ=(アプリオリ)な空間である。純粋直観が不可能であればヒューム的懐疑に陥るという懸念にも留意されたい。

もっとも今日的な一般的用法としては、アプリオリとは、「演繹的証明の必要のない自明的な事柄」という意味で使われることが多い。

またフレーゲによれば、命題の真偽が論理法則のみに依拠すれば「アプリオリ」であり、経験的事実に依拠すれば「アポステリオリ」となる[3]

フッサール現象学では、直観によるアプリオリの作用(抽象)を「本質直観」と呼んでいる[4]

認識論において用いられる難解な言葉であり、アプリオリはアポステリオリ対語である。「先験的」「先天的」などと訳される場合があるが、どちらの訳もこの語の意味にあっていないと言われ、多くの場合「アプリオリ」とカタカナで書かれる。

アプリオリの具体的な意は、「私はこのことをアプリオリに知っている」は「私はこのことを知っているが、経験を通じて知ったのではない」と言うような具合である。アプリオリの意は非常に複雑であり、わかりにくいと言われる。

「物事には原因がある」という観念は、実際の経験事実よりも「先立って」存在している。つまり因果律は経験に先立っている(prior)から、「アプリオリ」な観念だといわれる。

法学におけるアプリオリ

法学上の文脈で用いる場合には、いわゆる「自明」ないしは「所与のもの」などの語義と同視して用いられることがあり、特に論証や立証なくして明らかな事項(明らかであるとして扱ってよい事項)、などの意として使われる。

脚注

  1. ^ この二つが先立っていることが絶対に自明なのではなく、この二つが与えられなければ、物自体が認識できない以上、純粋直観として、何も認識できないことを、カントは強調している。
  2. ^ この場合は経験、感覚等を捨象することにより、地球が太陽を周回しているという綜合的判断が得られる。
  3. ^ ここでいう「命題」とは厳密には「ある判断の真理性の証明」を指す。野本和幸『フレーゲ哲学の全貌』勁草書房2012(p.155),
  4. ^ 本質直観は「イデー化(理念化)」とも呼ばれており、フッサール自身、様々な角度から説明を試みている。『デカルト的省察』・『論理学研究』など

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