「先発ローテーション」の版間の差分

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第二次世界大戦前の日本プロ野球は、シーズンの試合数が少なく、投手優位の試合が多かったため、各チームで2、3人の投手が交代で先発する方法が採用され、原則的に勝ち試合の先発投手は完投していた。そのため、シーズンの投球回は非常に多く、500回を超えることもあった。
第二次世界大戦前の日本プロ野球は、シーズンの試合数が少なく、投手優位の試合が多かったため、各チームで2、3人の投手が交代で先発する方法が採用され、原則的に勝ち試合の先発投手は完投していた。そのため、シーズンの投球回は非常に多く、500回を超えることもあった。


第二次世界大戦後に試合数が増加すると、先発投手の人数も増加したが、エース級の投手は状況により救援登板もしていたため、シーズンの投球回は多いままであった。特に、1961年のリーグ[[最優秀防御率]]であった[[稲尾和久]]と[[権藤博]]は、共に400回以上登板、権藤については「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤」という流行語も生まれるほど過密な登板であった。
第二次世界大戦後に試合数が増加すると、先発投手の人数も増加したが、エース級の投手は状況により救援登板もしていたため、シーズンの投球回は多いままであった。特に、1961年のリーグ[[最優秀防御率]]であった[[稲尾和久]]と[[権藤博]]は、共に400回以上登板(2012年現在も両リーグの投球回の最多記録)、権藤については「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤」という流行語も生まれるほど過密な登板であった。


しかし、稲尾・権藤ともに酷使の影響で故障し、選手生命を縮める結果となったことを教訓に、1960年代後半から救援専門投手が整備され始め、1980年頃に各球団で先発ローテーションが確立していった。1980年代の先発ローテーションは中5日が多く、先発投手が好調と判断した場合、先発投手に長い回を投げさせることも行われていたが、シーズンの投球回が300回を超えるような投手起用はなくなった。
しかし、稲尾・権藤をはじめ、酷使の影響で故障し、選手生命を縮めた選手が多数出たことを教訓に、1960年代後半から救援専門投手が整備され始め、1980年頃に各球団で先発ローテーションが確立していった。1980年代の先発ローテーションは中5日が多く、先発投手が好調と判断した場合、先発投手に長い回を投げさせることも行われていたが、シーズンの投球回が300回を超えるような投手起用はなくなった。


1990年代から中6日の先発ローテーションが増える一方で、先発投手の次回登板時の疲労に配慮し、投球数の多い先発投手を中継ぎ投手へ交代させることが増えたため、シーズンの投球回はさらに減少した。
1990年代から中6日の先発ローテーションが増える一方で、先発投手の次回登板時の疲労に配慮し、投球数の多い先発投手を中継ぎ投手へ交代させることが増えたため、シーズンの投球回はさらに減少した。

2012年9月6日 (木) 13:49時点における版

先発ローテーション(せんぱつローテーション)とは、野球、特にプロの野球においてリーグ戦を行う際、複数の投手先発投手として起用する順番のことである。「先発ローテ」または単に「ローテ」と呼ばれることもある。

概要

人間にとって、体の構造を考えると物を投げるという行為は不自然であると言われており、投手の肩や肘は投球によって疲労する。プロ野球のリーグ戦は、約半年間の長期にわたり100試合以上が行われるため、これだけの数の全ての試合に登板することは故障を誘発することとなり、実質的に不可能である。そのため各球団では、数人の投手を先発投手として用意しておき、この投手たちを順番に起用する。これが先発ローテーションである。

一定以上のレベルの投手は、先発時の投球による負荷によって肘周辺を中心に毛細血管が切れる。これが再生するには4日以上かかるとされるため、1人の投手の登板間隔を4日以上あける必要がある。5連戦以上の試合が組まれるプロ野球リーグの場合にはローテーションを組むには5人程度の投手を必要とする。

先発ローテーションは5人程度の投手から構成されることが一般的である。チーム内で優秀な投手を上位5人選出し、ローテーションに起用されることが多い。ローテーション入りされることは、投手にとって名誉なことである。先発ローテーションは、白星を稼ぐことで自チームを優勝へと導く役割を担う。

日本プロ野球

先発投手の登板間隔は「中○日」という形で表される。例えば、火曜日に登板して、その週の日曜日に再び登板すれば、間に水・木・金・土の4日があるので、中4日となる。日本のプロ野球では、かつては中0日や中1日などで多投する投手が見られたが、近年は中5日ないし中6日が主流である。投手が少ない場合や、強豪チーム相手に好投手を登板させたい場合などでは中4日もたまに見られる。

日本プロ野球の場合は、後述のMLBと違い1週間の日程が、火・水・木・金・土・日の6試合と定まっている日程がほとんどを占め、交流戦などの例外的な日程でも週5試合であるため長期連戦となることがほぼなく固定された登板間隔を保ちやすい。また、日本プロ野球のルール上、出場選手登録された28人の中から25人がベンチ入りすることになっているので、登板予定のない先発投手を出場選手登録したままベンチから外すことが一般的である(ベンチからはずれた選手は、俗に「あがり」と呼ばれる)。このため各球団は先発ローテーションとして6名を用意し、週の6戦に6名の投手をそれぞれ当てることが一般的である。

しかしチーム編成で6名の優れた先発投手を確保するのは容易ではないため、5名でローテーションを組むことも良く見られる。この場合能力の高い投手を中5日や中4日で登板させ、他の投手を中5日や中6日で登板させていく。そうやって組み合わせていくと最終的にどの投手も中4日以上の間隔を持って登板させることの出来ない試合が発生する。その試合では普段先発ローテーションとして起用されていない投手を起用せざるを得ない。当然この場合の先発投手は元々ローテーションを組んでいる投手より劣ることとなる。その状況を指して試合はローテーションの谷間、投手は谷間の投手と呼ばれる。なお投手もそのままローテーションの谷間と表現されることも多い。

なお満足な力量の投手を5人以上用意することができなくても、一部の投手への皺寄せを避けるために能力に劣る投手を加えて5人編成、6人編成のローテーションを組んでいる場合もある。この場合能力に劣る投手はローテーションに入って毎週登板していたとしてもやはり谷間の投手と呼ばれることがある。

歴史

第二次世界大戦前の日本プロ野球は、シーズンの試合数が少なく、投手優位の試合が多かったため、各チームで2、3人の投手が交代で先発する方法が採用され、原則的に勝ち試合の先発投手は完投していた。そのため、シーズンの投球回は非常に多く、500回を超えることもあった。

第二次世界大戦後に試合数が増加すると、先発投手の人数も増加したが、エース級の投手は状況により救援登板もしていたため、シーズンの投球回は多いままであった。特に、1961年のリーグ最優秀防御率であった稲尾和久権藤博は、共に400回以上登板(2012年現在も両リーグの投球回の最多記録)、権藤については「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤」という流行語も生まれるほど過密な登板であった。

しかし、稲尾・権藤をはじめ、酷使の影響で故障し、選手生命を縮めた選手が多数出たことを教訓に、1960年代後半から救援専門投手が整備され始め、1980年頃に各球団で先発ローテーションが確立していった。1980年代の先発ローテーションは中5日が多く、先発投手が好調と判断した場合、先発投手に長い回を投げさせることも行われていたが、シーズンの投球回が300回を超えるような投手起用はなくなった。

1990年代から中6日の先発ローテーションが増える一方で、先発投手の次回登板時の疲労に配慮し、投球数の多い先発投手を中継ぎ投手へ交代させることが増えたため、シーズンの投球回はさらに減少した。

4月1日から9月30日まで中5日で投げ続けると単純計算した場合の登板回数は36、中4日で45である。シーズン最多勝利のプロ野球記録はスタルヒンと稲尾和久の42勝であるが、中4日以上開けるのが不可欠とされる現代、更新は不可能であると言ってもいい。

メジャーリーグ

アメリカメジャーリーグ(MLB)では、1980年以降、先発投手5人を100球前後で降板させ中4日でまわすローテーションが定着している。 また、非常時には中3日の先発も行われている。

初期の野球では、チームのシーズンにおけるすべての試合を通じ、1人の投手だけが登板することが普通であり、ローテーションや継投という概念はなかった。 その後、ルールの変更などより1人の投手がすべての試合に登板することが非現実的となったため、1920年代から4人の投手が交代で先発する方法が定着した。 しかし、この頃は先発投手が救援登板する回数も多く、厳密な先発ローテーションは組まれていなかった。 第二次世界大戦後、救援専門の投手が増加すると、先発投手が救援登板する回数は減少していったが、先発投手の登板には相手チームとの相性や順位争いの状況も考慮されたため、必ずしも先発投手の登板間隔は一定ではなかった。

1960年代から4人の投手が中3日で先発する方法が一般的になり、ローテーションの原型が始まった。 1960年代から1970年代にかけては、投手優位の試合が比較的多かったこともあり、エース級の投手は勝ち試合のほとんどを完投していた。 このため、先発投手のシーズンの投球回は、300回以上となることも多かった。 1970年代の中頃から5人の投手が中4日で先発する方法が採用され始め、1980年代以降はほとんどのチームがこの方法を採用した。 また、1980年代以降は中継ぎ投手も一定間隔で登板する方法が採用され始めたため、先発投手が完投する回数は減少し、その結果、先発投手のシーズンの投球回は大幅に減少した。

アマチュア野球

  • 社会人野球の場合は、一定の期間にトーナメントを集中して行う場合が多く、プロ野球のように長いスパンでシーズンを戦うものではないため、2人か3人の先発投手を順番に登板させるのが一般的。ただし、昔のプロ野球のように絶対的なエースがいる場合(と同時にその投手と他の投手のレベルがあまりに違いすぎる場合)は、そのエースが先発連投し、他の投手がリリーバーに回ることが多い。
  • 大学野球のリーグ戦は2戦先勝の3試合制、すなわち1週間毎に2連戦ないしは3連戦を行う形式が多いため、多くて2人の先発投手がいれば十分であり、先発ローテーションと言う言葉は用いられない。
  • 高校野球はトーナメントのため、決勝が近づくと試合日程が過酷になるが、一番手投手と二番手以下の投手の力の差が大きいことや、ベンチ入りできる人数が少ないことなどから、1人から3人程度の投手で回すことが多い。そのため、しばしばエースの投げ過ぎが問題視されることがある。近年では、2006年度夏の甲子園で優勝した早稲田実業斎藤佑樹が1回戦、2回戦、3回戦、準々決勝、準決勝、決勝(延長15回引き分け)、決勝再試合の7試合・69回を全て1人で投げきった(正確には1度だけリリーフ投手と交代したが、その投手がひとつのアウトも取れず斎藤が再登板した)ことが話題となった。

関連項目

外部リンク