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'''ラール・クリシュナ・アードヴァーニー'''({{lang-sd|लाल कृष्ण आडवाणी}} [[1927年]][[11月27日]] - )は、[[インド]]の政治家。元[[インド人民党]]党首。
'''ラール・クリシュナ・アードヴァーニー'''({{lang-sd|लाल कृष्ण आडवाणी}} [[1927年]][[11月27日]] - )は、[[インド]]の政治家。元[[インド人民党]]党首。


[[カラチ]]生まれ。[[ムンバイ大学]]で[[法学]]の学位を取得後、[[民族義勇団]]に参加。[[1947年]]インド・[[パキスタン]]が割して独立すると、パキスタン領となったカラチから[[ラージャスターン州]]に移り[[ヒンドゥー至上主義]]者が中心となった[[インド大衆連盟]]結党に関わる。その後、大衆連盟は[[インド国民会議|国民会議派]]の反主流派や左翼・地方政党と[[ジャナタ党]]を結成。ジャナタ党の選挙勝利で[[モラルジー・デーサーイー]]内閣が成立すると、情報・放送大臣を務める。
[[カラチ]]生まれ。[[ムンバイ大学]]で[[法学]]の学位を取得後、[[民族義勇団]]に参加。[[1947年]]の[[インド・パキスタン分独立]]後に、パキスタン領となったカラチから[[ラージャスターン州]]に移り[[ヒンドゥー至上主義]]者が中心となった[[インド大衆連盟]]結党に関わる。その後、大衆連盟は[[インド国民会議|国民会議派]]の反主流派や左翼・地方政党と[[ジャナタ党]]を結成。ジャナタ党の選挙勝利で[[モラルジー・デーサーイー]]内閣が成立すると、情報・放送大臣を務める。


その後ジャナタ党が内部対立で瓦解すると、アードヴァーニーや[[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー]]などが中心となり[[インド人民党]]を結成。[[1998年]]に人民党が勝利しヴァージペーイー内閣が成立すると、内相・副首相を務めた。人民党は[[2004年]]に下野しヴァージペーイーが人民党党首を辞すると、後任の党首に就任。党首在任時には本来のヒンドゥー至上主義を薄めて支持回復を図ったが、党勢の回復に繋がらず[[2009年]]に党首を辞した。
その後ジャナタ党が内部対立で瓦解すると、アードヴァーニーや[[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー]]などが中心となり[[インド人民党]]を結成。[[1998年]]に人民党が勝利しヴァージペーイー内閣が成立すると、内相・副首相を務めた。人民党は[[2004年]]に下野しヴァージペーイーが人民党党首を辞すると、後任の党首に就任。党首在任時には本来のヒンドゥー至上主義を薄めて支持回復を図ったが、党勢の回復に繋がらず[[2009年]]に党首を辞した。

2012年3月25日 (日) 17:07時点における版

ラール・クリシュナ・アードヴァーニーシンド語: लाल कृष्ण आडवाणी 1927年11月27日 - )は、インドの政治家。元インド人民党党首。

カラチ生まれ。ムンバイ大学法学の学位を取得後、民族義勇団に参加。1947年インド・パキスタン分離独立後に、パキスタン領となったカラチからラージャスターン州に移りヒンドゥー至上主義者が中心となったインド大衆連盟結党に関わる。その後、大衆連盟は国民会議派の反主流派や左翼・地方政党とジャナタ党を結成。ジャナタ党の選挙勝利でモラルジー・デーサーイー内閣が成立すると、情報・放送大臣を務める。

その後ジャナタ党が内部対立で瓦解すると、アードヴァーニーやアタル・ビハーリー・ヴァージペーイーなどが中心となりインド人民党を結成。1998年に人民党が勝利しヴァージペーイー内閣が成立すると、内相・副首相を務めた。人民党は2004年に下野しヴァージペーイーが人民党党首を辞すると、後任の党首に就任。党首在任時には本来のヒンドゥー至上主義を薄めて支持回復を図ったが、党勢の回復に繋がらず2009年に党首を辞した。