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'''中院 通方'''(なかのいん みちかた、[[文治]]5年([[1189年]]) - [[暦仁]]元年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1239年]][[2月3日]]))は、[[鎌倉時代]]前期の[[公卿]]、故実家で歌人。[[源通親]]の五男。母は[[藤原範子]]。[[中院家]]の祖とされている。'''土御門 通方'''とも。 |
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6歳で[[従五位]]下を授けられ、翌年には父の[[知行国]]であった[[因幡国]]が与えられる。[[建暦]]元年([[1211年]])に[[蔵人頭]]となって翌年に公卿に列した。以後、[[参議]]・[[検非違使]][[別当]]・権[[中納言]]を歴任するが、[[承久の乱]]後[[恐懼]]処分を受けて謹慎した。乱後は姉の[[源在子|承明門院]]とその孫邦仁王([[土御門天皇]]の子、後の[[後嵯峨天皇]])を後見した。 |
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[[安貞]]元年([[1227年]])[[中納言]]となり、2年後に権[[大納言]]に転じる。その間に宮廷行事における服装などの[[有職故実]]についてまとめた『[[飾抄]]』を著した。歌人としては『新勅撰和歌集』他に10首収められている。暦仁元年([[1238年]])大納言に昇ったものの、間もなく病で倒れ、その年の暮れに50歳の生涯を閉じた。 |
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2011年12月17日 (土) 22:55時点における版
中院 通方(なかのいん みちかた、文治5年(1189年) - 暦仁元年12月28日(1239年2月3日))は、鎌倉時代前期の公卿、故実家で歌人。源通親の五男。母は藤原範子。中院家の祖とされている。土御門 通方とも。
生涯
6歳で従五位下を授けられ、翌年には父の知行国であった因幡国が与えられる。建暦元年(1211年)に蔵人頭となって翌年に公卿に列した。以後、参議・検非違使別当・権中納言を歴任するが、承久の乱後恐懼処分を受けて謹慎した。乱後は姉の承明門院とその孫邦仁王(土御門天皇の子、後の後嵯峨天皇)を後見した。
安貞元年(1227年)中納言となり、2年後に権大納言に転じる。その間に宮廷行事における服装などの有職故実についてまとめた『飾抄』を著した。歌人としては『新勅撰和歌集』他に10首収められている。暦仁元年(1238年)大納言に昇ったものの、間もなく病で倒れ、その年の暮れに50歳の生涯を閉じた。
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