「在日本朝鮮人連盟」の版間の差分
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昭和20年([[1945年]])10月15日、[[日比谷公会堂]]で、'''在日本朝鮮人連盟'''が結成された。全国各地の代表4000人が集まった。結成時の綱領は「新朝建設に献身的努力を期す」「世界平和の恒常的維持を期す」「在日同胞の生活安定を期す」「帰国同胞の便宜と秩序を期す」「日本国民との互譲友誼を期す」「目的達成のために大同団結を期す」の6項目だった。[[金天海]]が、最高顧問に就いた。[[韓徳銖]](後の[[在日本朝鮮人総聯合会]](朝鮮総連)議長)は神奈川県本部委員長に就任した。[[東京駅]][[八重洲口]]に在日本朝鮮人聯盟中央本部(朝聯会館)が設置された<ref name=1korea20091016/>。 |
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全国各地の代表4000人が集まった。結成時の綱領は「新朝建設に献身的努力を期す」「世界平和の恒常的維持を期す」「在日同胞の生活安定を期す」「帰国同胞の便宜と秩序を期す」「日本国民との互譲友誼を期す」「目的達成のために大同団結を期す」の6項目だった。[[金天海]]が、最高顧問に就いた。[[韓徳銖]](後の[[在日本朝鮮人総聯合会]](朝鮮総連)議長)は神奈川県本部委員長に就任した。[[東京駅]][[八重洲口]]に在日本朝鮮人聯盟中央本部(朝聯会館)が設置された<ref name=1korea20091016/>。 |
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[[朝鮮労働党|朝鮮共産党(朝鮮労働党)]]の下部組織としてゲリラ理論を説いた。 |
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[[日本共産党]]の尖兵として、また朝鮮人自らを「連合国人(戦勝国民)」であると勝手に位置づけ、敗戦国日本の法令に従う義務はないとして[[武生事件]]では裁判所や検察庁を焼き討ちをするなど、'''終戦後の混乱が続く日本国内各地で暴行・略奪・窃盗・官公署への横暴な態度と不当な要求・建築物の不法占拠・汽車、電車、バスなどの不法乗車・人民裁判などを引き起こした'''。<ref name=korea>「現代コリア」2000年5月号</ref> |
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なお同団体は勝手に[[日本共産党]]の共鳴者、連合国側の団体だと自己規定した。 |
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[[初代総選挙 (大韓民国)|南朝鮮単独の選挙]]を非難する一方で[[朝鮮民主主義人民共和国]]建国を支持し、建国時には祝賀事業を行った<ref name=1korea20091016/>。[[1948年]][[12月23日]]には北朝鮮に派遣された慶祝団は[[金日成]]主席との会見を実現させている<ref name=1korea20091016/>。 |
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しかし日本共産党とどこまで親密だったかは定かでは無い。 |
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しかし、1945年9月30日には[[GHQ]]が「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、朝連が「地外法権的地位にないこと」を発表しており、1949年9月8日にはGHQにより[[団体等規正令]]の「暴力主義的団体」として解散を命じられ、その資産は没収されることになった。<ref name=korea/> |
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その後は、後継団体として[[在日朝鮮統一民主戦線]]が結成され、後に[[朝鮮総連]]へと発展していった。 |
その後は、後継団体として[[在日朝鮮統一民主戦線]]が結成され、後に[[朝鮮総連]]へと発展していった。 |
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==参考文献== |
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* [[宮崎学]]『不逞者』[[幻冬舎]]<幻冬舎アウトロー文庫>、1999年、ISBN 4-87728-734-5 |
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* 『在日朝鮮人運動<small>(実務教養選書)</small>』(篠崎平治、1955年) |
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* 『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』(李瑜煥、1980年) |
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* 『「在日」としてのコリアン』(原尻英樹、1998年) |
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* 『在日本朝鮮人連盟』(岩波書店、2009年) |
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==脚注== |
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* [[評定河原事件]] |
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* [[台東会館事件]] |
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* [[本郷事件]] |
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* [[長崎警察署襲撃事件]] |
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* [[新潟日報社襲撃事件]] |
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* [[阪神教育事件]] |
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[[Category:在日韓国・朝鮮人の団体]] |
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2011年10月1日 (土) 17:07時点における版
在日本朝鮮人連盟 | |
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画像 在日本朝鮮人連盟中央総本部(朝聯会館) | |
各種表記 | |
ハングル: | 재일조선인련맹/재일조선인연맹 |
漢字: | 在日本朝鮮人聯盟 |
発音: | チェイルチョソンニンリョンメン/チェイルチョソンニンヨンメン |
日本語読み: | ざいにほんちょうせんじんれんめい |
在日本朝鮮人連盟(ざいにほんちょうせんじんれんめい、재일조선인련맹/재일조선인연맹)は、昭和20年(1945年)10月15日に結成され、昭和24年(1949年)9月8日に解散させられた日本在住の朝鮮人によって組織された団体[1]。略称は「朝連(ちょうれん、チョリョン、조련)」。「共和国に直結しよう」をスローガンに掲げていた[1]。
概要
詳細は「金天海」を参照
昭和20年(1945年)10月15日、日比谷公会堂で、在日本朝鮮人連盟が結成された。 全国各地の代表4000人が集まった。結成時の綱領は「新朝建設に献身的努力を期す」「世界平和の恒常的維持を期す」「在日同胞の生活安定を期す」「帰国同胞の便宜と秩序を期す」「日本国民との互譲友誼を期す」「目的達成のために大同団結を期す」の6項目だった。金天海が、最高顧問に就いた。韓徳銖(後の在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)議長)は神奈川県本部委員長に就任した。東京駅八重洲口に在日本朝鮮人聯盟中央本部(朝聯会館)が設置された[1]。 朝鮮共産党(朝鮮労働党)の下部組織としてゲリラ理論を説いた。
なお同団体は勝手に日本共産党の共鳴者、連合国側の団体だと自己規定した。
しかし日本共産党とどこまで親密だったかは定かでは無い。
その後は、後継団体として在日朝鮮統一民主戦線が結成され、後に朝鮮総連へと発展していった。
参考文献
脚注
- ^ a b c “朝聯解散、朝鮮学校閉鎖令60周年に思う 在日朝鮮人政策、根本から転換を”. 朝鮮新報 (2009年10月16日). 2011年閲覧。accessdateの記入に不備があります。