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乱後、崇徳上皇は[[讃岐国]]に流罪になり、重仁親王は[[仁和寺]]に入り出家した。[[寛暁]]大僧正のもとで仏道に励んだが、[[1162年]]に足の病により死去した。
乱後、崇徳上皇は[[讃岐国]]に流罪になり、重仁親王は[[仁和寺]]に入り出家した。[[寛暁]]大僧正のもとで仏道に励んだが、[[1162年]]に足の病により死去した。



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2005年12月20日 (火) 10:18時点における版

重仁親王(しげひとしんのう 長久元年(1140年)-応保2年(1162年))は平安時代後期の皇族崇徳天皇の第1皇子。

1141年、親王宣下。1150年、元服。1155年近衛天皇が崩御すると、父の崇徳上皇は重仁親王の即位を望むが、鳥羽法皇は雅仁親王を即位させてしまう(後白河天皇)。崇徳上皇がこれに強い恨みを持ったことが保元の乱の原因となる。

乱後、崇徳上皇は讃岐国に流罪になり、重仁親王は仁和寺に入り出家した。寛暁大僧正のもとで仏道に励んだが、1162年に足の病により死去した。