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*[http://www.islands.ne.jp/yawatahamaozu/people_back/people15/rekishi/ 細川一] 八幡浜・大洲地区広域市町村圏組合
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2005年12月17日 (土) 14:22時点における版

細川 一(ほそかわ はじめ、1901年-1970年)は、水俣病を公式に発見した医師である。

履歴

  • 1901年 9月23日 愛媛県西宇和郡三瓶村(後の三瓶町、現在の西予市)に生まれた。
  • 1927年 東京帝国大学医学部を卒業した。
  • 1936年 日本窒素肥料株式会社に入った。朝鮮半島にある工場の附属病院長に就いた。
  • 1941年 水俣工場附属病院長に就いた。
  • 1941年 軍医としてビルマに赴いた。
  • 1947年 復員し、水俣工場付属病院長の職に戻った。
  • 1950年財閥解体により、日本窒素肥料は新日本窒素肥料となった。)
  • 1956年 5月1日 「原因不明の中枢神経疾患の発生」を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。
  • 1957年 5月 猫に水俣工場廃液を与える実験を始めた。
  • 1959年 10月 廃液を投与され続けた「猫400号」が運動失調の症状を示すことを確認した。水俣病の原因は工場廃液だと確信したが、会社の説得によってこれを公表しなかった。
  • 1962年 新日本窒素肥料を辞め、故郷の愛媛県に戻った。
  • 1970年 肺ガンのため入院した。入院中に水俣病裁判の証人として臨床尋問を受け、隠蔽されていた猫400号実験について証言した。
  • 1970年 10月13日 肺癌のため死去した。享年69。

外部リンク

  • 細川一 八幡浜・大洲地区広域市町村圏組合