「ラール・クリシュナ・アードヴァーニー」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: ru:Адвани, Лал Кришна |
LightgrayShips2015 (会話 | 投稿記録) Cat+1 |
||
1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:Advani Family.JPG|thumb|right|ラール・クリシュナ・アードヴァーニー]] |
[[ファイル:Advani Family.JPG|thumb|right|ラール・クリシュナ・アードヴァーニー]] |
||
'''ラール・クリシュナ・アードヴァーニー'''({{lang-sd|लाल कृष्ण आडवाणी}} [[1927年]][[11月27日]]-)は、[[インド]]の政治家。元[[インド人民党]]党首。 |
'''ラール・クリシュナ・アードヴァーニー'''({{lang-sd|लाल कृष्ण आडवाणी}} [[1927年]][[11月27日]] - )は、[[インド]]の政治家。元[[インド人民党]]党首。 |
||
[[カラチ]]生まれ。[[ムンバイ大学]]で[[法学]]の学位を取得後、[[民族義勇団]]に参加。[[1947年]]にインド・[[パキスタン]]が分割して独立すると、パキスタン領となったカラチから[[ラージャスターン州]]に移り[[ヒンドゥー至上主義]]者が中心となった[[インド大衆連盟]]結党に関わる。その後、大衆連盟は[[インド国民会議|国民会議派]]の反主流派や左翼・地方政党と[[ジャナタ党]]を結成。ジャナタ党の選挙勝利で[[モラルジー・デーサーイー]]内閣が成立すると、情報・放送大臣を務める。 |
[[カラチ]]生まれ。[[ムンバイ大学]]で[[法学]]の学位を取得後、[[民族義勇団]]に参加。[[1947年]]にインド・[[パキスタン]]が分割して独立すると、パキスタン領となったカラチから[[ラージャスターン州]]に移り[[ヒンドゥー至上主義]]者が中心となった[[インド大衆連盟]]結党に関わる。その後、大衆連盟は[[インド国民会議|国民会議派]]の反主流派や左翼・地方政党と[[ジャナタ党]]を結成。ジャナタ党の選挙勝利で[[モラルジー・デーサーイー]]内閣が成立すると、情報・放送大臣を務める。 |
||
10行目: | 10行目: | ||
{{India-stub}} |
{{India-stub}} |
||
{{DEFAULTSORT:あとはあにい らある くりしゆな}} |
{{DEFAULTSORT:あとはあにい らある くりしゆな}} |
||
⚫ | |||
[[Category:インドの政治家]] |
[[Category:インドの政治家]] |
||
[[Category:カラチ出身の人物]] |
|||
⚫ | |||
[[Category:存命人物]] |
|||
[[bn:লালকৃষ্ণ আডবাণী]] |
[[bn:লালকৃষ্ণ আডবাণী]] |
2011年8月3日 (水) 04:17時点における版
ラール・クリシュナ・アードヴァーニー(シンド語: लाल कृष्ण आडवाणी 1927年11月27日 - )は、インドの政治家。元インド人民党党首。
カラチ生まれ。ムンバイ大学で法学の学位を取得後、民族義勇団に参加。1947年にインド・パキスタンが分割して独立すると、パキスタン領となったカラチからラージャスターン州に移りヒンドゥー至上主義者が中心となったインド大衆連盟結党に関わる。その後、大衆連盟は国民会議派の反主流派や左翼・地方政党とジャナタ党を結成。ジャナタ党の選挙勝利でモラルジー・デーサーイー内閣が成立すると、情報・放送大臣を務める。
その後ジャナタ党が内部対立で瓦解すると、アードヴァーニーやアタル・ビハーリー・ヴァージペーイーなどが中心となりインド人民党を結成。1998年に人民党が勝利しヴァージペーイー内閣が成立すると、内相・副首相を務めた。人民党は2004年に下野しヴァージペーイーが人民党党首を辞すると、後任の党首に就任。党首在任時には本来のヒンドゥー至上主義を薄めて支持回復を図ったが、党勢の回復に繋がらず2009年に党首を辞した。