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'''姚広孝'''(ようこうこう、[[1335年]]-[[1418年 |
'''姚広孝'''(ようこうこう、[[1335年]]-[[1418年]])は、[[明]]初期の[[政治家]]・[[軍師]]。 |
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長州(現在の[[江蘇省]])出身。[[医者]]の家柄であった。幼名は'''幼天嬉'''(ようてんき)という。 |
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永楽帝時代を通じて重用された大功臣であるが、靖難の変で建文帝を廃し、永楽帝のもとでも権勢を極めた第一人者であったため、故郷では家族から友人までもが、姚広孝に会うことを二度としなかったと言われている。 |
永楽帝時代を通じて重用された大功臣であるが、靖難の変で建文帝を廃し、永楽帝のもとでも権勢を極めた第一人者であったため、故郷では家族から友人までもが、姚広孝に会うことを二度としなかったと言われている。 |
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== 姚広孝にまつわる伝承 == |
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1418年3月に死去。享年84。永楽帝はその死を惜しみ、推誠輔国協謀宣力文臣を追贈し、栄録大夫・上柱国・栄国公に特進させた。諡は恭靖(きょうせい)という。 |
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== 逸話 == |
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* 晩年、故郷に錦を飾ろうと帰郷したが、姉も知人も面会を拒んだため、諦めて帰ろうとした際、家から飛び出してきた姉に「和尚は道を過てり」と罵られ、落胆して故郷を去ったという。当時の民間では靖難の変がどのように評価されていたかが分かるエピソードである。 |
* 晩年、故郷に錦を飾ろうと帰郷したが、姉も知人も面会を拒んだため、諦めて帰ろうとした際、家から飛び出してきた姉に「和尚は道を過てり」と罵られ、落胆して故郷を去ったという。当時の民間では靖難の変がどのように評価されていたかが分かるエピソードである。 |
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* 上記のエピソードの続きで、親族や知人に批判された彼は永楽帝から受領した金などを全て彼らに分与したが、80歳を超える実姉からは「昔の和尚はこんなお人ではなかった。慈悲の心のない人に、私は挨拶する言葉など知りませんよ」と述べて2度と会おうとせず、友人も「薪割りが忙しい」とだけ言って会おうともしなかったという。 |
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* [[元 (王朝)|元]]の[[クビライ]]に仕えた謀臣である[[劉秉忠]]の生まれ変わりであると、当時人相家として有名だった[[袁珙]]に称された。 |
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* 永楽帝は姚広孝が病に倒れると、何度も見舞って回復を祈ったという。 |
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== 参考文献 == |
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* 『明史』([[中華書局]]) |
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* 『永楽帝』([[徳間書店]]。[[伴野朗]]) |
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2011年6月27日 (月) 11:31時点における版
姚広孝(ようこうこう、1335年-1418年)は、明初期の政治家・軍師。
人物
長州(現在の江蘇省)出身。医者の家柄であったが、14歳で出家して道衍と称し、以後は仏法や陰陽術を学んだ。1385年、洪武帝の招聘を受けてその四男・燕王の朱棣(のちの永楽帝)の軍師として仕えた。朱棣からは多大なる信任を受けて重用され、洪武帝の死後、朱棣に挙兵を進言した。これは、建文帝が朱棣の勢力を疎んじていたらしく、また朱棣自身も建文帝の即位には不満だったらしいことから、彼が挙兵を進言したという。姚広孝はその軍師としての智謀をもってして建文帝軍を打ち破り、朱棣を永楽帝として即位させた(靖難の変)。
即位した永楽帝から、靖難の変における第一の功臣と賞されて「広孝」と名を与えられ、太子少師として永楽帝から厚遇を受けた。永楽帝時代には「太祖実録」、「永楽大典」の編纂に従事する傍らで「道余録」など仏教擁護・浄土信仰に関する著作を多く残している。
永楽帝時代を通じて重用された大功臣であるが、靖難の変で建文帝を廃し、永楽帝のもとでも権勢を極めた第一人者であったため、故郷では家族から友人までもが、姚広孝に会うことを二度としなかったと言われている。
姚広孝にまつわる伝承
- 燕王に初めて会った際、「あなたに白い帽子をかぶせましょう。」と言ったという。「王」の字に「白」の字を乗せることで「皇」という字になるから、「あなたを王から皇帝にしてさし上げよう。」という意味である。
- 晩年、故郷に錦を飾ろうと帰郷したが、姉も知人も面会を拒んだため、諦めて帰ろうとした際、家から飛び出してきた姉に「和尚は道を過てり」と罵られ、落胆して故郷を去ったという。当時の民間では靖難の変がどのように評価されていたかが分かるエピソードである。
- 幸田露伴「運命(数)」参照。