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m 左伝曰 ”夏斉侯陳侯鄭伯遇于垂。” (夏、鄭子は斉の襄公・陳の宣公と垂で会合した。)すなわち、鄭子の爵位は伯爵です。
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'''鄭子'''(ていし、紀元前?年 - [[紀元前680年]])は、[[鄭]]の第8代君主。[[荘公 (鄭)|荘公]]の子で[[昭公 (鄭)|昭公]]・[[子ビ|子亹]]の弟。爵位[[爵]]なので鄭子という。
'''鄭子'''(ていし、紀元前?年 - [[紀元前680年]])は、[[鄭]]の第8代君主。[[荘公 (鄭)|荘公]]の子で[[昭公 (鄭)|昭公]]・[[子ビ|子亹]]の弟。爵位[[爵]]だが、鄭子という。


== 生涯 ==
== 生涯 ==

2011年6月18日 (土) 09:07時点における版

鄭子
8公
王朝
在位期間 紀元前693年 - 紀元前680年
都城
姓・諱 姫嬰(子儀)
諡号 なし
生年 不詳
没年 紀元前680年
荘公
鄧曼

鄭子(ていし、紀元前?年 - 紀元前680年)は、の第8代君主。荘公の子で昭公子亹の弟。爵位は伯爵だが、鄭子という。

生涯

荘公の子として生まれる。

子亹元年(前694年)7月、会合の席で子亹が襄公によって殺されると、大夫高渠弥は鄭に逃げ帰り、祭仲と相談したうえ、子亹の弟である公子嬰をから迎えて鄭君(以降は鄭子と表記)に立てた。

鄭子4年(前690年)夏、鄭子は斉の襄公・宣公と垂で会合した。

鄭子12年(前682年)、祭仲が卒去した。

鄭子14年(前680年)夏、櫟(れき)に逃亡していた厲公が鄭に侵攻し、大夫の傅瑕(ふか)を捕えた。傅瑕は厲公に命乞いをし、「私を許してくだされば、あなたを鄭君に迎えましょう」と言った。6月、そこで厲公は傅瑕に鄭君である鄭子を殺すよう命じ、鄭子とその2子を殺させた。これによって厲公はふたたび鄭君となった。

参考資料

  • 春秋左氏伝』(桓公十八年、荘公四年、十四年)
  • 史記』(鄭世家第十二)
先代
子亹
君主
第8代:前693年 - 前680年
次代
厲公