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==騒動のその後==
==騒動のその後==
隠岐住民達その後[[明治政府]]から自治政府の認定を受けようと京都へ使いを送ったが、明治政府は隠岐を[[松江藩]]の領地とすると決定していた為、自治政府は正式承認を受けられかった。
4月1日、中西毅男は[[明治政府]]から隠岐が天朝領であることの確認と自治の認定を受けようと京都へ向かったが、思うよう回答がいまま時が過ぎた。


松江藩・第10代藩主[[松平定安]]が隠岐に兵を送り、松江藩が一時陣屋を奪取するが[[薩摩藩]][[長州藩]]が反対し、[[鳥取藩]]仲介のもと松江藩兵は撤退した為地元住たちの自治政府再度復活した。これを受け明治政府は一時隠岐を[[鳥取藩]]預ける事した。
閏4月27日、[[太政官]]から隠岐支配内示を受けた松江藩主[[松平定安]]が派遣した兵が隠岐に上陸、松江藩が陣屋を奪還した、島民側に同情的な[[薩摩藩]][[長州藩]]、[[鳥取藩]]仲介し5月16日に松江藩兵は撤退し、による自治が一時復活したものの、[[明治元年]]11月に鳥取藩の管理下置かれこととなり自治は実上終了、翌年2月に民兵組織も解体された。

[[明治4年]]、島民と松江藩双方の騒動に関係した者が罰せられ、一連の騒動は収束した。


==関連項目==
==関連項目==

2011年5月17日 (火) 19:34時点における版

隠岐騒動(おきそうどう)は、明治元年(1868年)に江戸幕府領で松江藩が実効支配していた隠岐国で起こった松江藩と隠岐島住民の騒動の一連の事を指す。この騒動は、雲藩騒動ともいわれる。

騒動までの経緯

寛永15年(1638年)の松平直政の松江への入部以来、以後隠岐は松江藩の預かり地となっていた。 江戸時代中期以降、隠岐では食糧難が恒常化していたが松江藩は有効な手立てを打つことなく、島民の間では藩に対する不信感が高まっていた。

嘉永5年 / 嘉永6年(1853年)の黒船来航以来、黒船日本近海への出没が頻繁に発生し、松江藩は幕府から隠岐国の防御を命ぜられ文久2年(1862年)にイギリスとアメリカから艦船を一隻ずつ購入している。 さらに松江藩は文久3年(1863年)に隠岐の軍備増強のため当時全国的に導入されつつあった農兵制を隠岐で採用し藩士・錦織録蔵がこれを指導した。元治元年(1864年)には隠岐防御への協力を朝廷より命ぜられていた鳥取藩から景山龍蔵も派遣された。しかし、隠岐国郡代の枝元喜左衛門は西郷港に入港した船に立ち入った際、帯刀を船内に置き忘れるという失態を犯した。これにより島民の松江藩への信頼は大きく失墜した。 慶応2年(1866年)、松江藩は農兵隊に加えて、島の有産家の子弟三十人を選び、これに扶持を与えて「新農兵」として組織した。ついで翌年には武芸差留を布告し事実上、農兵は廃止された。

騒動の概要

隠岐国住民達は従来より尊王攘夷志向が強かった。 同様に尊王志向の強い十津川では「文武館」(現、奈良県立十津川高等学校)という学校が儒者中沼了三により設立されていた。 これを知った中沼の弟子の中西毅男は同名の学校設立の嘆願書を同士七十三名の連署を得て、新任の郡代である山郡宇右衛門に願い出たが取り下げられた。 慶応4年(1868年)2月、神官庄屋ら島民有志が京都徳川慶喜への直訴をしようと京都に向かうが、本州上陸後、長州藩の取り調べを受け王政復古がなったことを知り退却した。 また、山陰道鎮撫使総監西園寺公望から隠岐国の庄屋方へ宛てられた書状を、山郡が庄屋らに渡る前に開封したことが露見する。 これらを受けて3月15日島後の庄屋職が会合で郡代の追放で衆論がまとまると島前の庄屋らにも参加を求めた。

そして3月19日早朝島後・島前の住民およそ3000人が隠岐郡代の陣屋を急襲し、山郡は隠岐から追放され、施政機関としての総会所が陣屋に設置され、島民による自治が開始した。

騒動のその後

4月1日、中西毅男は明治政府から隠岐が天朝領であることの確認と自治の認定を受けようと京都へ向かったが、思うような回答がないまま時が過ぎた。

閏4月27日、太政官から隠岐支配の内示を受けた松江藩主松平定安が派遣した兵が隠岐に上陸、松江藩兵が陣屋を奪還したが、島民側に同情的な薩摩藩長州藩鳥取藩が仲介し5月16日に松江藩兵は撤退し、島民による自治が一時復活したものの、明治元年11月に鳥取藩の管理下に置かれることとなり自治は事実上終了し、翌年2月に民兵組織も解体された。

明治4年、島民と松江藩双方の騒動に関係した者が罰せられ、一連の騒動は収束した。

関連項目