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'''呉 芮'''(ご ぜい、? - [[紀元前202年]]、在位:紀元前202年)は、[[秦]]末から[[前漢]]にかけての群雄の一人。初代[[長沙]]王で、漢代初めに高祖[[劉邦]]を皇帝に推戴した7人の異姓諸侯王のうち、趙王[[張耳]]と並んで天寿を全うして子孫に王位を伝え、長沙王は異姓諸侯王の中で最も長く続いた王となった。 |
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子孫:[[呉綱]]<ref>『[[魏書 (三国)|魏書]]』諸葛誕伝が引く『[[世語]]』よると、呉芮の16世孫で、[[魏 (三国)|魏]]の[[諸葛誕]]の[[長史]]を勤めたと記されている。</ref> |
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秦の番陽県令であり、長江・番陽湖一帯の人々に慕われ、「番君」と呼ばれた。[[陳勝・呉広の乱]]に始まる秦末の乱の際、[[英布]]は呉 |
秦の番陽県令であり、長江・番陽湖一帯の人々に慕われ、「番君」と呼ばれた。[[陳勝・呉広の乱]]に始まる秦末の乱の際、[[英布]]は呉芮に従い、呉芮は自分の娘を英布の妻とし、[[越]]の人間を率いて秦への反乱に加担した。沛公劉邦が南陽を攻めた際、劉邦は呉芮の将の梅鋗と遭遇し、一緒に南陽の県を攻め落とした。 |
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沛公劉邦が南陽を攻めた際、劉邦は呉芮の将の梅鋗と遭遇し、一緒に南陽の県を攻め落とした。 |
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長沙王は子の成王呉臣が継いだ。呉臣は在位中、反乱を起こすも敗れて逃げてきた英布を殺している。その後も長沙国は劉邦が「劉氏でなければ王としない」と盟約を結んだことの例外となり、哀王呉回、共王呉右、靖王呉差と継承され、長沙国は[[文帝 (漢)|文帝]]の後7年([[紀元前157年]])に呉差が後継ぎを残さず死亡するまで続いた。 |
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巻1下高帝紀下、巻13異姓諸侯王表、巻31項籍伝、巻34英布伝、同呉 |
巻1下高帝紀下、巻13異姓諸侯王表、巻31項籍伝、巻34英布伝、同呉芮伝</span> |
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2011年3月26日 (土) 16:26時点における版
呉 芮(ご ぜい、? - 紀元前202年、在位:紀元前202年)は、秦末から前漢にかけての群雄の一人。初代長沙王で、漢代初めに高祖劉邦を皇帝に推戴した7人の異姓諸侯王のうち、趙王張耳と並んで天寿を全うして子孫に王位を伝え、長沙王は異姓諸侯王の中で最も長く続いた王となった。
略歴
姓名 | 呉芮 |
---|---|
時代 | 秦代 - 前漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 前202年(漢太祖1年) |
字・別号 | 番君(綽名) |
本貫・出身地等 | 〔不詳〕 |
職官 | 番陽県令〔秦〕→〔地方軍頭領〕 |
爵位・号等 | 衡山王〔楚〕→番君〔楚〕 →長沙王〔漢〕→長沙文王〔沒後〕 |
陣営・所属等 | 〔独立勢力〕→項羽→劉邦 |
家族・一族 | 子:呉臣 孫:呉回 呉淺 |
秦の番陽県令であり、長江・番陽湖一帯の人々に慕われ、「番君」と呼ばれた。陳勝・呉広の乱に始まる秦末の乱の際、英布は呉芮に従い、呉芮は自分の娘を英布の妻とし、越の人間を率いて秦への反乱に加担した。沛公劉邦が南陽を攻めた際、劉邦は呉芮の将の梅鋗と遭遇し、一緒に南陽の県を攻め落とした。
高祖元年(紀元前206年)、関中が劉邦、項羽によって落とされ秦が滅び、項羽が義帝を奉じて各地に王を立てると、越の人間を率いて功績のあった呉芮は衡山王に封じられ、梅鋗は十万戸の侯に封じられた。その後、項羽は九江王英布と衡山王呉芮に命じ、義帝を殺させた(『史記』項羽本紀)。
その後、時期は不明だが呉芮は項羽によって衡山王を剥奪され、番君に降格される。また、英布と同時期あるいは、英布を唆して劉邦陣営に付いたのかは不明だが、功績が高いと評価される。
高祖5年(紀元前202年)、漢王劉邦が項羽を滅ぼすと、楚王韓信、韓王韓信、淮南王英布、梁王彭越、趙王張耳、燕王臧荼と共に劉邦に「皇帝」の尊号を奉った。同年、呉芮は劉邦により長沙王(異姓七王の一人)に立てられ、その年に死亡した。文王と諡された。また、高祖劉邦は後に呉芮の忠を褒め称え、律令に記させている。
長沙王は子の成王呉臣が継いだ。呉臣は在位中、反乱を起こすも敗れて逃げてきた英布を殺している。その後も長沙国は劉邦が「劉氏でなければ王としない」と盟約を結んだことの例外となり、哀王呉回、共王呉右、靖王呉差と継承され、長沙国は文帝の後7年(紀元前157年)に呉差が後継ぎを残さず死亡するまで続いた。
脚注
参考文献
巻19恵景間侯者年表
巻1下高帝紀下、巻13異姓諸侯王表、巻31項籍伝、巻34英布伝、同呉芮伝