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== 歴史 ==
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テッサロニキは[[紀元前315年]]前後に[[マケドニア王国|マケドニア]]王[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によって創建。アレクサンドロスの王統より王位を奪った[[カッサンドロス]]は王妃[[テッサロニカ]](アレクサンドロスの腹違いの姉妹)の名を取りテッサロニケーと名付けた。[[紀元前168年]]にマケドニア王国が滅びてから、[[共和制ローマ]]領の都市となる。ローマと[[ビュザンティオン|ビザンチウム]](後のローマ帝国の[[首都]][[コンスタンティノポリス]]、現在の[[イスタンブル]])を結ぶ[[エグナティア街道]]沿いの重要拠点となり、東西交易の場所として栄えた。ローマが東西に分割されたあとは、[[東ローマ帝国]]の権力下に置かれ、コンスタンティノポリスに次ぐ、帝国第二の都市として栄え、多くの教会が建設された。テッサロニキの人々は[[聖像破壊運動]]の時代にも[[イコン]]を隠して守ったため、他の旧東ローマ帝国領内では失われてしまった聖像破壊運動以前の貴重なイコンや[[モザイク]]画が数多く残っている。
テッサロニキは[[紀元前315年]]前後に[[マケドニア王国|マケドニア]]王[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によって創建。アレクサンドロスの王統より王位を奪った[[カッサンドロス]]は王妃[[テッサロニカ]](アレクサンドロスの腹違いの姉妹)の名を取りテッサロニケーと名付けた。[[紀元前168年]]にマケドニア王国が滅びてから、[[共和制ローマ]]領の都市となる。ローマと[[ビュザンティオン|ビザンチウム]](後のローマ帝国の[[首都]][[コンスタンティノポリス]]、現在の[[イスタンブル]])を結ぶ[[エグナティア街道]]沿いの重要拠点となり、東西交易の場所として栄えた。ローマが東西に分割されたあとは、[[東ローマ帝国]]の権力下に置かれた。581年頃には[[スラヴ人]]586年には[[アヴァール人]]による包囲を受けたが、強固な城壁によって守られた。しかし、620年に大地震に見舞われたことで、ローマ時代の[[フォルム]]などの公共施設が崩壊するなど激しい打撃を受けた。
コンスタンティノポリスに次ぐ、帝国第二の都市として栄え、多くの教会が建設された。テッサロニキの人々は[[聖像破壊運動]]の時代にも[[イコン]]を隠して守ったため、他の旧東ローマ帝国領内では失われてしまった聖像破壊運動以前の貴重なイコンや[[モザイク]]画が数多く残っている。


[[1430年]]に[[オスマン帝国]]によって占領され、以後オスマン帝国の都市となる。トルコ人からはセラーニク(Selânik)、また近在の[[スラヴ人]]からはソルン({{lang|bg|Солун}}、Solun)と呼ばれた。この期間、[[イスラム教]]徒と[[ユダヤ教]]徒の人口が増え、社会基盤が整備されていった。[[バルカン半島]]の中心都市として、東西貿易の拠点としてオスマン帝国でも最も重要な都市の一つとなっていた。[[1888年]]に鉄道が敷設され、[[1896年]]から[[1904年]]の間には港湾が整備された。現代[[トルコ]]の[[建国の父]]、[[ケマル・アタテュルク]]は[[1881年]]にこの町で生まれた。[[青年トルコ人革命]]はここが本部となっていた。
[[1430年]]に[[オスマン帝国]]によって占領され、以後オスマン帝国の都市となる。トルコ人からはセラーニク(Selânik)、また近在の[[スラヴ人]]からはソルン({{lang|bg|Солун}}、Solun)と呼ばれた。この期間、[[イスラム教]]徒と[[ユダヤ教]]徒の人口が増え、社会基盤が整備されていった。[[バルカン半島]]の中心都市として、東西貿易の拠点としてオスマン帝国でも最も重要な都市の一つとなっていた。[[1888年]]に鉄道が敷設され、[[1896年]]から[[1904年]]の間には港湾が整備された。現代[[トルコ]]の[[建国の父]]、[[ケマル・アタテュルク]]は[[1881年]]にこの町で生まれた。[[青年トルコ人革命]]はここが本部となっていた。

2011年3月1日 (火) 14:57時点における版

テッサロニキ
ギリシャの旗
Θεσσαλονίκη
テッサロニキ市街
テッサロニキ市街
テッサロニキ Θεσσαλονίκηの市旗
位置
テッサロニキの位置の位置図
テッサロニキの位置
座標 : 北緯40度38分 東経22度57分 / 北緯40.633度 東経22.950度 / 40.633; 22.950
行政
ギリシャの旗 ギリシャ
 地方 中央マケドニア
  テッサロニキ県
テッサロニキ
ギリシャの旗
Θεσσαλονίκη
地理
面積  
  域 17.8 km2
標高 20 m
人口
人口 (2001年現在)
  域 36万3987人
    人口密度   2万0449人/km2
  都市圏 105万7825人
    都市圏人口密度   9,787人/km2
その他
等時帯 EET (UTC+2)
夏時間 EEST (UTC+3)
公式ウェブサイト : [1]
テッサロニキのアギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会

テッサロニキΘεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki)はギリシャの第二の都市。中央マケドニア地方の首府である。古代においてはテサロニケと呼ばれ日本語でも表記されることが多い。またテサロニキ(Thessaloniki)、テサロニカ(Thessalonica)、サロニカ(Salonica)とも呼ばれる。トルコ語ではセラーニク(Selanik、オスマン語表記:سلانیك)である。人口は36万3987人、郊外まで含む大都市圏では80万9457人である。

概要

東ローマ帝国時代の教会や城壁が多数残されており、アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われている。アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。

歴史

テッサロニキは紀元前315年前後にマケドニアアレクサンドロス大王によって創建。アレクサンドロスの王統より王位を奪ったカッサンドロスは王妃テッサロニカ(アレクサンドロスの腹違いの姉妹)の名を取りテッサロニケーと名付けた。紀元前168年にマケドニア王国が滅びてから、共和制ローマ領の都市となる。ローマとビザンチウム(後のローマ帝国の首都コンスタンティノポリス、現在のイスタンブル)を結ぶエグナティア街道沿いの重要拠点となり、東西交易の場所として栄えた。ローマが東西に分割されたあとは、東ローマ帝国の権力下に置かれた。581年頃にはスラヴ人、586年にはアヴァール人による包囲を受けたが、強固な城壁によって守られた。しかし、620年に大地震に見舞われたことで、ローマ時代のフォルムなどの公共施設が崩壊するなど激しい打撃を受けた。

コンスタンティノポリスに次ぐ、帝国第二の都市として栄え、多くの教会が建設された。テッサロニキの人々は聖像破壊運動の時代にもイコンを隠して守ったため、他の旧東ローマ帝国領内では失われてしまった聖像破壊運動以前の貴重なイコンやモザイク画が数多く残っている。

1430年オスマン帝国によって占領され、以後オスマン帝国の都市となる。トルコ人からはセラーニク(Selânik)、また近在のスラヴ人からはソルン(Солун、Solun)と呼ばれた。この期間、イスラム教徒とユダヤ教徒の人口が増え、社会基盤が整備されていった。バルカン半島の中心都市として、東西貿易の拠点としてオスマン帝国でも最も重要な都市の一つとなっていた。1888年に鉄道が敷設され、1896年から1904年の間には港湾が整備された。現代トルコ建国の父ケマル・アタテュルク1881年にこの町で生まれた。青年トルコ人革命はここが本部となっていた。

1912年バルカン戦争ギリシャ軍がテッサロニキに攻め込み、オスマン帝国から奪還した。1913年にギリシャの国王ゲオルギオス1世がテッサロニキ訪問中に暗殺されるという事件が起こった。1915年には第一次世界大戦の最中、連合国軍がテッサロニキに集結し、ドイツ・ブルガリア連合軍と対峙した。ギリシャの当時の首相エレフテリオス・ヴェニゼロスは国王の反対を押し切りここに臨時政府を建てた。1917年8月17日の大火災で町のほとんどが消失し、エレフテリオス・ヴェニゼロス首相の命でフランス人設計の都市計画による欧州的な近代都市が建設された。その後希土戦争が勃発し、小アジア地方からの多くの難民を受け入れた。

第二次世界大戦時には、1941年4月から1944年10月までナチス・ドイツの支配下に入り、連合国側からの空爆で町は被害を受けた。

1978年6月20日マグニチュード6.5の大地震に見舞われた。 1988年には町のビザンティン様式の建築群が、ユネスコ世界遺産に登録された(テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群)。

交通

姉妹都市

スポーツ

関連項目

外部リンク

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