「明法 (僧)」の版間の差分

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'''明法'''(みょうほう、[[元暦]]元年([[1184年]])- [[建長]]3年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]([[1251年]][[11月27日]]))は、[[鎌倉時代]]の[[浄土真宗]]の[[僧]]。[[親鸞]]直弟二十四輩の一人。元の名を豊前僧都とも、弁円とも言う。
'''明法'''(みょうほう、[[元暦]]元年([[1184年]])- [[建長]]3年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]([[1251年]][[11月27日]]))は、[[鎌倉時代]]の[[浄土真宗]]の[[僧]]。[[親鸞]]直弟二十四輩の一人。元の名を豊前僧都とも、弁円とも言う。


[[修験道]]を学び[[山伏]]となり、[[常陸国|常陸]]で布教活動をしていた。同じ時期に常陸にいた親鸞をねたみ、殺害を企てるが失敗。稲田の草庵に押し掛けたところ、親鸞に対面するやいなや懺悔して弟子になったという。
[[修験道]]を学び[[山伏]]となり、[[常陸国|常陸]]で布教活動をしていた。同じ時期に常陸にいた親鸞をねたみ、殺害を企てるが失敗。稲田の草庵に押し掛けたところ、親鸞に対面するやいなや懺悔して山伏を捨てて弟子になり、明法と名乗ったという。


[[末灯鈔]]には、親鸞が明法の浄土往生を喜んだことが記されている。
[[末灯鈔]]には、親鸞が明法の浄土往生を喜んだことが記されている。[[茨城県]]の板敷山大覚寺がその旧跡となっており、弁円ゆかりの遺品が残されている他、本堂裏にそびえる板敷山には弁円の[[護摩壇]]跡なども残っている。


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2010年5月14日 (金) 15:37時点における版

明法(みょうほう、元暦元年(1184年)- 建長3年10月13日1251年11月27日))は、鎌倉時代浄土真宗親鸞直弟二十四輩の一人。元の名を豊前僧都とも、弁円とも言う。

修験道を学び山伏となり、常陸で布教活動をしていた。同じ時期に常陸にいた親鸞をねたみ、殺害を企てるが失敗。稲田の草庵に押し掛けたところ、親鸞に対面するやいなや懺悔して山伏を捨てて弟子になり、明法と名乗ったという。

末灯鈔には、親鸞が明法の浄土往生を喜んだことが記されている。茨城県の板敷山大覚寺がその旧跡となっており、弁円ゆかりの遺品が残されている他、本堂裏にそびえる板敷山には弁円の護摩壇跡なども残っている。