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2009年12月17日 (木) 04:19時点における版

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ウルグ・ベク1394年3月22日 - 1449年10月27日)は、ティムール朝の第4代君主。初代君主・ティムールの四男・シャー・ルフの子(在位:1447年 - 1449年)。

1408年、父の命を受けてサマルカンドの知事として赴任し、そこを治めた。ウルグは文化的に優れた人物であったため、父がとの国交を修復すると、サマルカンドには交易で中国文化が取り入れられるようになる。そのような中で、ウルグはイスラム系だけではなく中国の文化や学問も保護または奨励し、さらに学校や天文台などを多数建設した。このウルグの治世により、サマルカンドはイスラム文化の一大都市として大いに栄えたのである。

1417年、サマルカンドの現在レギスタン広場がある場所でウルグ・ベク・マドラサの建設を開始する。それ以外にも、ブハラとギジュドゥボンに神学校を建設。

1447年、父の死により君主の地位を継いだ。しかし、ウルグは政治家としては優れていたが軍人としては父や祖父に遠く及ばない人物であったため、帝国内で後継者をめぐっての争いが起こる。しかも、それを見て好機とばかりにウズベク族までもが侵攻してきたため、帝国は混乱を極めた。そして、このような混乱の中でウルグ自身も、1449年に長男・アブドゥッラティーフの反乱にあって殺されてしまったのである。

ウルグは政治家としても優れていた一方で、天文学者歴史家でもあったため、「天文表」や「四ハン国史」など、貴重な著作を幾つも残している文人でもある。しかし、ウルグの治世わずか2年の間に起こった内乱で帝国の権威は失墜し、滅亡を成す遠因となったのである。


先代
シャー・ルフ
ティムール朝の君主
1447年 - 1449年
次代
アブドゥッラティーフ

関連項目

ウルグ・ベク・マドラサ

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