「ゲオルク・エルザー」の版間の差分
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2009年12月11日 (金) 09:08時点における版
ヨハン・ゲオルク・エルザー(Johann Georg Elser、1903年1月4日-1945年4月9日)は、ドイツのテロリスト。アドルフ・ヒトラー暗殺未遂事件の首謀者として知られる。
略歴
ヴュルテンベルク (Württemberg) のヘルマリンゲン (Hermaringen) 出身。ケーニヒスブローン (Königsbronn) の小学校を卒業した後、大工の職業訓練を受け、1922年からケーニヒスブローンやアーレンやハイデンハイム (Heidenheim an der Brenz) の建具屋で大工として働いた。さらに1925年から1929年にかけてコンスタンツの工場で働いた。ここで時限爆弾の知識を身につけた。1929年から1932年にかけてはスイスで再び大工として働いた。ドイツへ帰国したのち、ハイデンハイムの工場で働いた。
エルザーは1928年に同僚に誘われてドイツ共産党の戦闘部隊「赤色戦線戦士同盟」に入隊している。そして1933年に共産党が解散させられるまで共産党に投票していた。ただしエルザーは信仰熱心なプロテスタントであり、決して共産主義者というわけではなかった。共産党が労働者の利益を最も重視している政党だと考えて投票していただけであった。対してアドルフ・ヒトラーや国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の政策には明確に反対していた。
1939年11月8日、ヒトラーは、ビアホール「ビュルガーブロイケラー」 (Bürgerbräukeller) でミュンヘン一揆16周年記念演説を行った。ヒトラーが退席した後、時限爆弾が爆発し、7人が死亡し、63人が負傷した。SDのラインハルト・ハイドリヒやヴァルター・シェレンベルクは、イギリスの諜報機関の仕業と睨み、翌日11月9日にはオランダのフェンローで活動してたペイン・ベスト (Payne Best) とリチャード・スティーブンス(Richard Stevens)の二名を拉致した。
一方エルザーは11月8日夜にスイスへ不法越境しようとして逮捕されていた。エルザーは爆弾犯が自分であることを自白したが、単独犯であることを主張し、イギリスの陰謀を否定した。しかしヒトラーはイギリスの陰謀と確信しており、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに背後関係を調べるよう命じた。ヒムラーは自らがエルザーの取り調べに赴いた。居合わせた者の証言によるとヒムラーはエルザーに罵声を浴びせながら足蹴にし、さらにゲシュタポの一人にエルザーを鞭で打ちつけさせ、苦痛で悲鳴をあげるまで打ちすえた後、エルザーは再びヒムラーの前に引きずり出されて罵詈と足蹴りを受けたという。それでもエルザーは単独犯であると主張した。ヒムラーはその後、フランツ・ヨーゼフ・フーバーに取り調べを任せたが、フーバーも自白させられず、「エルザーの単独犯」の結論を出した。ハイドリヒも「単独犯」と認めるしかなかった。捜査の失敗にヒムラーはヒトラーから譴責を受けたという。
1945年4月9日にダッハウ強制収容所内で殺害された。
参考文献
- ルパート・バトラー著『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)ISBN 978-4562039760
- ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史(上)』(講談社学術文庫)ISBN 978-4061594937
エルザーに関する映画
- 『ヒットラーを狙え!-独裁者 運命の7分間』(1989年 アメリカ)