「羽柴秀勝 (石松丸)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''羽柴 秀勝'''(はしば ひでかつ、[[元亀]]元年([[1570年]]) - [[天正]]4年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[1576年]][[11月4日]]))は、[[安土桃山時代]]の人物。[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[近江国]]・[[長浜城 (近江国)|長浜城]]主時代に側室・[[南殿]](一説に京極高次の妹[[京極竜子|竜子]]とも)との間に設けた長男で、幼名は'''石松丸'''(いしまつまる)。
'''羽柴 秀勝'''(はしば ひでかつ、[[元亀]]元年([[1570年]]) - [[天正]]4年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[1576年]][[11月4日]]))は、[[安土桃山時代]]の人物。[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[近江国]]・[[長浜城 (近江国)|長浜城]]主時代に側室・[[南殿]](一説に同じく側室の京極高次の妹[[京極竜子|竜子]]とも)との間に設けた長男で、幼名は'''石松丸'''(いしまつまる)。


==概要==
==概要==
秀吉の正室の[[高台院|ねね]]には子がなかったため、秀吉にとっては初めての男児であったが、6歳で夭折した。秀吉は幼くして没した彼を偲ぶためか、彼の名である「秀勝」を養子の内の何人かに名乗らせており、[[羽柴秀勝]]や[[豊臣秀勝]]もその一人である。その存在を疑問視する声も多いが、宝厳寺の「[[竹生島奉加帳]]」に秀吉の子の「石松丸」の存在は、その母の南殿と共に記されている。また、[[滋賀県]][[長浜市]]の妙法寺に秀勝の肖像画が所蔵されていたが焼失し、現存していないものの、天正4年10月の銘文がある秀勝のものと思われる供養塔が残っている。同市の徳昌寺には位牌があり、法名は本光院朝覚居士となっている。
秀吉の正室の[[高台院|ねね]]には子がなかったため、秀吉にとっては初めての男児であったが、6歳で夭折した。秀吉は幼くして没した彼を偲ぶためか、彼の名である「秀勝」を養子の内の何人かに名乗らせており、[[羽柴秀勝]]や[[豊臣秀勝]]もその一人である。その存在を疑問視する声も多いが、宝厳寺の「[[竹生島奉加帳]]」に秀吉の子の「石松丸」の存在は、その母の南殿と共に記されている。また、[[滋賀県]][[長浜市]]の妙法寺に秀勝の肖像画が所蔵されていたが焼失し、現存していないものの、法要用の掛け軸「本光院朝覚居士絵像」は現在も写真が残っている。また同寺には天正4年10月14日の銘文がある秀勝のものと思われる供養塔が残っており、法名は「朝覚霊位」。同市の徳昌寺には位牌があり、法名は本光院朝覚居士となっている。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2009年11月19日 (木) 13:40時点における版

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、元亀元年(1570年) - 天正4年10月14日1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。羽柴秀吉近江国長浜城主時代に側室・南殿(一説に同じく側室の京極高次の妹竜子とも)との間に設けた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)。

概要

秀吉の正室のねねには子がなかったため、秀吉にとっては初めての男児であったが、6歳で夭折した。秀吉は幼くして没した彼を偲ぶためか、彼の名である「秀勝」を養子の内の何人かに名乗らせており、羽柴秀勝豊臣秀勝もその一人である。その存在を疑問視する声も多いが、宝厳寺の「竹生島奉加帳」に秀吉の子の「石松丸」の存在は、その母の南殿と共に記されている。また、滋賀県長浜市の妙法寺に秀勝の肖像画が所蔵されていたが焼失し、現存していないものの、法要用の掛け軸「本光院朝覚居士絵像」は現在も写真が残っている。また同寺には天正4年10月14日の銘文がある秀勝のものと思われる供養塔が残っており、法名は「朝覚霊位」。同市の徳昌寺には位牌があり、法名は本光院朝覚居士」となっている。

関連項目