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'''田代重右衛門'''(たしろ じゅうえもん、[[1854年]]([[嘉永]]7年)1月2日 - [[1932年]]([[昭和]]7年)[[12月14日]])は、日本の[[実業家]]。
'''田代重右衛門'''(たしろ じゅうえもん、[[1854年]]([[嘉永]]7年)1月2日 - [[1932年]]([[昭和]]7年)[[12月14日]])は、日本の[[実業家]]。


嘉永7年1月2日、[[美濃国]][[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[下座倉村]]([[岐阜県]])で、父重兵衛の子として生まれる。幼名は松太郎。生家は、綿花、藍、茶商を生業とし、屋号は棉屋と称した。[[寺子屋]]で学び、11歳のころには父に従い商売にでる。明治14年28歳で大阪で綿糸商を営むが、一旦郷里にひきあげる。26年再度上阪し、尼崎紡績に入社、27年には抜擢され副支配人、34年取締役に就任した。41年東洋紡を合併し、綿布の製造を始める。のち東京紡績、日本紡績、摂津紡績を合併し、大正7年大日本紡績(現・[[ユニチカ]])と改称した。その後、日本絹毛紡績を合併、鹿児島紡績を買収する。13年に相談役に就任。同時に[[日本貯蓄銀行]]相談役なども兼任した。
嘉永7年1月2日、[[美濃国]][[大野郡 (岐阜県)|大野郡]][[下座倉村]]([[岐阜県]])で、父重兵衛の子として生まれる。幼名は松太郎。生家は、綿花、藍、茶商を生業とし、屋号は棉屋と称した。[[寺子屋]]で学び、11歳のころには父に従い商売にでる。明治14年28歳で大阪で綿糸商を営むが、一旦郷里にひきあげる。26年再度上阪し、尼崎紡績に入社、27年には抜擢され副支配人、34年取締役に就任した。41年東洋紡を合併し、綿布の製造を始める。のち東京紡績、日本紡績、摂津紡績を合併し、大正7年大日本紡績(現・[[ユニチカ]])と改称した。その後、日本絹毛紡績を合併、鹿児島紡績を買収する。13年に相談役に就任。同時に[[日本貯蓄銀行]]相談役なども兼任した。


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2009年10月31日 (土) 00:12時点における版

田代重右衛門(たしろ じゅうえもん、1854年嘉永7年)1月2日 - 1932年昭和7年)12月14日)は、日本の実業家

嘉永7年1月2日、美濃国大野郡下座倉村岐阜県)で、父重兵衛の子として生まれる。幼名は松太郎。生家は、綿花、藍、茶商を生業とし、屋号は棉屋と称した。寺子屋で学び、11歳のころには父に従い商売にでる。明治14年28歳で大阪で綿糸商を営むが、一旦郷里にひきあげる。26年再度上阪し、尼崎紡績に入社、27年には抜擢され副支配人、34年取締役に就任した。41年東洋紡織を合併し、綿布の製造を始める。のち東京紡績、日本紡績、摂津紡績を合併し、大正7年大日本紡績(現・ユニチカ)と改称した。その後、日本絹毛紡績を合併、鹿児島紡績を買収する。13年に相談役に就任。同時に日本貯蓄銀行相談役なども兼任した。

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