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[[若狭国]][[小浜藩]]士・山岸惟智の四男として生まれたが、[[1786年]]([[天明]]2年)、同藩の伴信当の[[養子]]となる。[[1801年]]([[享和]]元年)村田春門を介して[[本居宣長]]没後の門人となり、宣長の養子の[[本居大平]]に国学を学ぶ。[[1821年]]([[文政]]4年)、息子の[[伴信近|信近]]に家督を譲り、以後、学問に専念した。


[[平田篤胤]]君兄と慕われていたが、後に篤胤と決別した。師弟関係を好まず、弟子なかった。
[[平田篤胤]]、[[黒川春村]]、[[本居内遠]]などと交流があり、篤胤からは君兄と慕われていたが、後に齟齬を来して決別した。師弟関係を好まず、弟子ることはなかった。


[[1846年]]([[弘化]]3年)、[[京都]]の堀川で死
[[1846年]]([[弘化]]3年)、[[京都]]の堀川で死


== 主な著作 ==
== 主な著作 ==

2009年10月27日 (火) 18:34時点における版

伴 信友ばん のぶとも1773年3月17日(安永2年2月25日) - 1846年12月2日(弘化3年10月14日))は、江戸時代国学者である。幼名は惟徳。通称は州五郎。号は事負

博覧強記で、古典の考証に優れていた。 平田篤胤橘守部小山田与清とともに、「天保の国学の四大人」と呼ばれる。

若狭国小浜藩士・山岸惟智の四男として生まれたが、1786年(天明2年)、同藩の伴信当の養子となる。1801年(享和元年)村田春門を介して本居宣長没後の門人となり、宣長の養子の本居大平に国学を学ぶ。1821年(文政4年)、息子の信近に家督を譲り、以後、学問に専念した。

平田篤胤黒川春村本居内遠などと交流があり、篤胤からは君兄と慕われていたが、後に齟齬を来して決別した。師弟関係を好まず、弟子をとることはなかった。

1846年(弘化3年)、京都の堀川で死去。

主な著作

  • 『和名抄鈔考』
  • 『斉明紀童謡推釈』
  • 『長等の山風』
  • 『瀬見の小河』
  • 『日本書紀考』
  • 『史籍年表』
  • 『鎮魂論』
  • 『鈴屋翁略年譜』
  • 『比古婆衣』