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Shimoxx (会話 | 投稿記録)
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よろしくお願いします。--[[利用者:ささのは|ささのは]] 2009年7月27日 (月) 06:54 (UTC)
よろしくお願いします。--[[利用者:ささのは|ささのは]] 2009年7月27日 (月) 06:54 (UTC)
:コメントありがとうございます、立場は違いますがこれからもよろしくお願いします。--[[利用者:ささのは|ささのは]] 2009年7月30日 (木) 11:07 (UTC)
:コメントありがとうございます、立場は違いますがこれからもよろしくお願いします。--[[利用者:ささのは|ささのは]] 2009年7月30日 (木) 11:07 (UTC)
::ご丁寧なごあいさつに痛み入ります。記事内容の充実に向けて議論できれば嬉しく思います。--[[利用者:Shimoxx|shimoxx]] 2009年7月30日 (木) 13:36 (UTC)

2009年7月30日 (木) 13:36時点における版

均田制の査読お願い

こんばんは、Shimoxxさん。らりたです。今回、均田制査読依頼に出しており、Shimoxxさんの知識に基づいた意見が頂きたいと思いました。Shimoxxさんは口分田や職田といった均田制関連項目に良く投稿なされているのでご意見をいただけると大変助かります。よろしくお願いいたします。らりた 2007年1月20日 (土) 13:10 (UTC)[返信]

微力ではございますが、諒解いたしました。--shimoxx 2007年1月20日 (土) 13:41 (UTC)[返信]

琉球国王号の削除に関する提案について

Shimoxxさん、はじめまして。Kunipooと申します。私は現在、Wikipedia‐ノート:スタイルマニュアル (人物伝)におきまして琉球国王の記事名から王号を削除する提案をさせて頂いている者です。これに関しまして、琉球の人名、年号の表記についてにご意見をお寄せになっておられるShimoxxさんのご意見も是非賜りたいと思いますのでどうぞ宜しくお願い致します。--Kunipoo 2007年1月27日 (土) 03:25 (UTC)[返信]

例えば、歴史学研究の場で「尚真王」という用法がなされているのであれば、「王」の有無についてあんまりこだわる必要はないように思うのです。ということをWikipedia‐ノート:スタイルマニュアル (人物伝)#琉球国王の記事名から王号を削除する提案に書くかどうか悩んでおります。-shimoxx 2007年1月28日 (日) 15:23 (UTC)[返信]
早速のお返事ありがとうございます。提案をしている私が言うのもなんなんですが、実は私も「あまり細かくこだわる必要はないんだけどな」と感じてはおります。これは歴史を「学問」として捉えるか「物語」として捉えるかといった考え方の違いとも絡んで来るのですが、比較的、「歴史学」的に書かれている書籍は王号の無いものが多く、対して「歴史物語」的に書かれている書籍は王号がついているように見受けられます(これはあくまで私の主観ですし、恐らく実際は当の歴史学者・歴史小説家も厳密にこだわってはいないと思われます)。まぁ学問ならば主人公は要りませんし、物語ならば主人公が登場・活躍するわけですから、そういう傾向は已むを得ないのですが、Wikipediaはあくまで百科事典ですので学問としての裏打ちがなされるべきかと思っております。また、「こだわる」と言う意味では、もともと王号の無い形であった記事を「尚玉さん個人の違和感」のみをもとに現在の形になっているわけで(これは各王の記事の履歴を見て頂ければ判りますが、記事の移動は全て尚玉さんお一人でなされたものです)、私としては「なぜここまで王号をつけることにこだわってるんだろう?」と不思議に思っておる次第です。私が細かくこだわっていない事は、「記事中には王号をつけても構わないのではないか」と尚玉さんに譲歩している事からもお判り頂けるかと思います。--Kunipoo 2007年1月28日 (日) 17:16 (UTC)[返信]

平安時代及び鎌倉時代の概要について

Shimoxxさん、はじめまして、Wushiと申します。ここ最近、内容が滅茶苦茶だったり時系列がぐちゃぐちゃの歴史の概要やリンク付けされていない歴史事項(日本史や中国史が主です)に対し、修正・加筆を行っています。

平安時代・鎌倉時代の概要について私の意見をそれぞれノート:平安時代ノート:鎌倉時代に書いておりますので、ノートにご確認、意見追加の程宜しくお願いいたします。--Wushi 2007年1月27日 (土) 19:39 (UTC)→若干修正--Wushi 2007年1月28日 (日) 13:22 (UTC)[返信]

今回は大変失礼いたしました。重ねてお詫び申し上げます。それぞれのノートに返答を書いておきました。日本史分野に新たな執筆者が登場されたことを大変嬉しく思っております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。--shimoxx 2007年1月28日 (日) 15:23 (UTC)[返信]
shimoxx 様、ノート:平安時代ノート:鎌倉時代に書いてある内容を拝読しました。こちらこそ不躾に質問したことをお詫びいたします。今後とも宜しくお願いいたします。こちらももう少し構成を考えたいと思います(仰るとおり、文脈上に源氏奥州藤原氏の台頭を盛り込むのは苦労がいると思います)。いくらでも協力しますので私のノートに色々ご記入ください。また、当面は私のノートに記載しているように中国史の翻訳も補強していこうかなと思っておりますが日本史にも目を通しますので宜しくお願いいたします。--Wushi 2007年1月28日 (日) 16:17 (UTC)[返信]

日本の歴史の項目の編集について

日本の歴史のこの編集で[1]、信長に関する記述(本能寺の変まで)を安土桃山時代の節から戦国時代の節へ移されてますが、この点が解せません。上洛以降は安土桃山時代では?わたしの知る限りではそうですし、安土桃山時代の項目でもそうなってます。最近の有力な説が本能寺の変までは戦国時代で、秀吉の時代のみが安土桃山時代となっているようでしたらご教授頂きたい。それだと「安土」の意味がなくなるよう気はするんですが。あと卑弥呼の部分、わたしが修正した「治める」が不味いのはなんとなく理解できたのですが、「居住する」もなんか家に住んでるみたいで、生活観を感じる表現でこの場合は違和感を感じます。「邪馬台国卑弥呼が倭国王となった。」ぐらいでいいんじゃないでしょうか?

どうもすみません。まず戦国時代の件ですが、確かに通説は1573年ですね。ただ、文脈といいますか、流れ的に本能寺の変で切った方が読者にとって判りやすいのかな~、と書き換えてしまいました。本来的には正確な内容を記述すべきですので、味っ子さんのご指摘のとおりだと考え直しました。という訳で、再度書き直してみました。おかしければ修正しちゃってください。
卑弥呼の件ですが、ご提案の文案の方が良いと思います。これも再度書き直してみました。
余談になりますが、私は人物や合戦にはほとんど無知ですので、最近の承久の乱山本勘介へのご加筆には「スゲーよく書けてるなあ~」と感心しきりでございます。今後ともよろしくご教導をお願いいたします。--shimoxx 2007年1月29日 (月) 15:14 (UTC)[返信]
さっそくのご対応ありがとうございました。あと、いま気付いたのですが、前回のここでの書き込みに署名し忘れていました。大変に失礼いたしました。--味っ子 2007年1月30日 (火) 10:09 (UTC)[返信]

戦国時代の時代区分について

お久しぶりです。最近、現代中国史にばかりかかりきりになっていましたので、久しぶりに日本史の概略を見たら戦国時代が保護状態になってびっくりしました。私の専門は中国CHINAなので、手元に文献がありませんが、ノート:戦国時代 (日本)に意見を書いておりますのでご覧下さい。時代区分については、ノート:江戸時代で少し、私と萬卯さんのやり取りもありますのでご参考までに。--Wushi 2007年3月31日 (土) 11:50 (UTC)[返信]

オタスケマン氏無期限ブロック

今晩は。戦国時代を荒らしている氏を、ブロック依頼に提出されているようなので、ご連絡いたします。ご確認ください。--Wushi 2007年4月9日 (月) 12:49 (UTC)[返信]

日本の政権のボックスの削除の件

初めまして、Kk8998982と申します。さて、Shimoxxさんが、一連の日本の政権のボックスの削除を行っております。いろいろ見解はおありだと思いますが、内容は、普通に日本史を学習しているものから見れば、極めて常識的な順序であったと思いますが、”無用または有害なボックス”と判断された根拠を示していただければ幸いです。確かに過去から”政権”の概念は無かったかもしれませんが、”有害”と決め付けるのは行き過ぎだと思います。この件であなたと編集合戦にいたるのは本意ではありませんので、ご説明いただけたらと思います。よろしくお願いいたします。--Kk8998982 2007年4月11日 (水) 13:39 (UTC)[返信]

どうもはじめまして。当方の意図をご説明申し上げます。
例えば平氏政権ですけれども、当時、日本の単一の政権として平氏政権が存在していたわけではありません。武家である平氏が朝廷政治の重要な地位を占めた、という政治形態を指して平氏政権と呼んでいたのでありまして、後白河院や摂関家も平氏と比肩しうる有力な政治的地位にありました。同様に、鎌倉幕府も鎌倉時代を通じて日本単一の政権ではありませんでした。鎌倉時代には、朝廷(公家政権)と鎌倉幕府が並立して政権を担っていたというのが通説です。ですので、平氏政権が消滅して次に鎌倉幕府が政権の座についたというような理解は、あるいは人口に膾炙してはいるでしょうけれども、他に並存していた有力な政権を無視してしまっている点で妥当とはいえません。残余の室町幕府等も同様です(おのおの説明は省かせていただきます)。日本の歴史を見てみますと、ある政権が次の政権へ交代した、というような事例は織豊期など極めて限定的にしか見られず、複数の政権が役割分担しながら政治を担っていき、時代とともにその形態が変化していくという理解が一般的になされています。
以上のことから、「日本の政権ボックス」には日本の歴史における政権の変化を理解する上で有用性があまり認められず、むしろ政権が一方向的に交代したとの誤解を生みかねない危険性が高いものと判断いたしまして、誠に申し訳ないことではありますが、消去させていただきました。あしからずどうぞご諒解くださいませ。--shimoxx 2007年4月11日 (水) 15:49 (UTC)[返信]
趣旨は了解いたしました。ひとまず静観したいと思います。--Kk8998982 2007年4月11日 (水) 23:22 (UTC)[返信]

はじめまして

papamaruchan22ともうします。歴史や文学そして趣味の航空機部門を覗いております老兵です。いつもshimoxxさんの 記事を拝見してすばらしい方がいらっしゃるなと感心しておりました。またこのたびは伊勢物語のノートにお越しいただきお世話様でした。私も作者についてとりかかったものの改稿はやはりShimoxxさんの文章でと思っている次第です。あと委細ノートで。今後とも宜しくご厚誼ください。papamaruchan22 2007年5月24日 (木) 06:10 (UTC)[返信]

過分なお言葉を頂戴いたしまして、赤面の至りでございます。以前より私もPapamaruchanさんのご活躍を密かに拝見しておりました。貴兄といいLawSomaさんといい、みちのくには優秀な書き手があまたという印象でございます。例の件につきましては、例のノートにご返事申し上げました。--shimoxx 2007年5月25日 (金) 14:27 (UTC)[返信]

平安貴族のページでのコメントについて

いくら余談とは言っても平安貴族での私に対する意見は言いすぎだと思います。どのような意見かは、平安貴族のページのノートをご覧下さい。--んどん 2007年9月7日 (金) 09:14 (UTC)[返信]

いいえ、言い過ぎには当たらないと思ってます。「平安貴族」を読みまして、んどんさんがウィキペディアで項目執筆することを誰かが止めさせなければならないと思い、あのように書きました。(言いたくはないのですが)あなたにはまだ百科事典編纂に参加する能力はありません。10年後にでも能力をつけて戻ってこられるのでしたら大歓迎です。それまではウィキペディアに執筆せず、読むだけの利用にとどめておいてください。将来のご成長を楽しみに待っています。shimoxx 2007年9月8日 (土) 03:06 (UTC)[返信]

もしよければ、ユーザーボックスのいい作品を選んで一票お願いします一票の出し方は、利用者:んどん /ユーザーボックス試作室に書いていますので、良ければ一票お願いします。--んどん 2007年9月7日 (金) 10:01 (UTC)[返信]

こちらには始めまして

ノート:秋田城介」のshimoxx さんのコメントにあったリンクは「秋田城介」でなくて 「秋田城」だったんですね、昨日初めて気がつきました。「秋田城」の項は昔、前九年の役に ついて自分のサイトにまとめているころ勉強させて頂きました。有り難う御座います。 おまけに今回は利用者:Shimoxxで勝手に勉強させて頂いて、利用者:ktmchi/下書き(1)を作ってみました。これもまた有り難う御座います。m(_ _)m

しかし、沢山お書きになってるんですね。凄い! 最近源義家を更新している最中なのですが、なんか変なところがあったら教えてください。下書き中のものもノートとかに突っ込みを入れてもらえれば。荘園史は苦手です。「権門」はもっと苦手です。お願いします、早く書いてください。(と勝手なことを) --KTMCHI 2007年11月28日 (水) 14:46 (UTC)[返信]

こちらこそKTMCHIさんのサイトにお世話になりっぱなしです。例えば国衙軍制は、KTMCHIさんのサイトなしで書くことはできませんでした。他にも例を挙げていくとキリがないほどです。特に諸先生方のご主張を過不足なくまとめておられることに感服しました。自分には敷居の高い石母田・竹内・安田・戸田・石井・佐藤・高橋・元木etcの諸先生のご所見をわかりやすくご紹介いただき、大変助かっております。改めて御礼申し上げます。
自分もかつてはたくさん執筆しておりました。でも品質面から見ると失格なものばかりです(秋田城含む)。ろくすっぽ調べもせず、あやふやな情報(ネット情報とか)を元に書いたり、自分の主張(独自研究)をこっそり混ぜたり[1]しておりました。最近になってようやくちゃんと調べて書くということが身についてきましたが、今度はほとんど筆が進まなくなってきております。
自分にはKTMCHIさんの執筆内容に物申せるほどの知識がありません。史学関係の科目なんて一つも(パンキョーですら)履修したことのないずぶの素人です。以前に比べて最近は日本史学を専攻している/していたウィキペディアンも相当数ともなりましたし、そのほか優秀な書き手の方も増えてきましたので、心強く思っている今日この頃です。
逆にKTMCHIさんにお願いなのですが、武士団に加筆しちゃいただけませんか?石井先生(小学館通史とかちくまライブラリとか)や野口先生や元木先生を読んでおりますと、段々と自分の手に負えないことがわかってきました。ぜひよろしくお願いします!
  • ^ 例えば「藤原元命」。保立先生の所論のみに依拠して元命の弁護に偏りすぎだろ、と指弾されれば返す言葉もございません。
  • -shimoxx 2007年11月29日 (木) 15:07 (UTC)[返信]
    私のサイトですが、もうご覧になったかもしれませんが、髙橋昌明先生の『武士の成立 武士像の創出』についてのページはだいぶ書き直しました。最初の頃は「何これ、京貴族びいきの関東ぎらい?」なんてほんとに思っていたんです。最近3度目の読み直しをしてから「私が悪う御座いました。m(_ _)m」ですわ。でもあの方の言い方は実にわかりにくい。「最初からそう言ってくれれば良いのに!」というのが最後に3行ぐらいで出てくる。3行ぐらいしかない。やっぱり誤解をさせる髙橋先生が悪いんじゃない? (と人のせいにする)。
    ところで「武士団」ですか。私には無理です。というのは何が武士団なのかよく解りません。秩父七党とか、鎌倉党とか、頼政の率いていた渡辺党とか、名前だけは知っていますが。鎌倉党なんて、鎌倉に住んでて、鎌倉時代以前の鎌倉の情報収集はそれなりにしているつもりですが、それでも鎌倉党の実態なんてどこにもでていません。鎌倉党についてだけは、詳しく書いてある本があるとすれば、ほとんど想像をこねくりまわした嘘っぱちだろうと思います。秩父七党とか関東武士団とかは本が出ていたと思いますが読んでいません。おそらく秩父七党と渡辺党はその実態は全く違ったものだろうと。
    秩父七党と渡辺党の共通点といえば、「家」の連合体ってとこですかね。渡辺党は渡辺綱(実在性は疑問)の宇多源氏だか嵯峨源氏の家と、頼政の摂津源氏の家と、文覚なんかの藤原氏の連合体みたいだし。でも経済活動は一緒にやっていたような。秩父七党は経済活動は個々の在地開拓で、地域的な緩やかなまとまりのような。そもそもまとまって軍事行動を起こしたことがあるんだろうか? というような感想もあまり自身はありません。
    あとは戦後初期の学者さん、それこそ山内・安田両先生は「武士」を論じているのではなくて「武士団」の発生を述べていて、それが髙橋先生や、元木先生と噛み合わないところなんじゃないかと、うっすらと思います。ということは本当に在地領主、「国の兵」とセットで考えることになるんですかね。そうすると武士論者の「敵」みたいになってしまう。やっかいですねぇこれは。というので私の手にはおえません。自分ひとりでも頭が混乱して????の繰り返しです。
    義家はほぼ全面書き直しでUPしてしまいました。どういう反応を食らうのかヒヤヒヤものです。岩田@北鎌倉(--KTMCHI 2007年12月1日 (土) 07:09 (UTC)[返信]
    源義家読みました。こーゆーアカデミックな視点から書かれた人物記事がもっと増えて欲しいと思います。詳しい感想はKTMCHIさんのノートに書きます。
    「武士団」なんですが、このひどい有様を早いとこ何とかできないものか、と思ってお願いしてみました。気が向いたら、ちろちろっと書いてみますので、そのときはおかしなとこに手を入れてやってくださいまし。
    高橋先生の武士論は、正直、自分には非常に難解であり、とはいえ悔しいのでずっと判ったつもりになってきていましたが、KTMCHIさんサイトの判りやすい解説のおかげで、少しは理解に近づけたような気がします。日本史サイトはあまたあれど、諸先生方の研究成果を反映させてるサイトはほとんど皆無に近い。今後も(勝手にですが)期待をさせていただきます。では~。--shimoxx 2007年12月1日 (土) 16:50 (UTC)[返信]
    「武士団」はshimoxx さんが立てられた項目かと勘違いしてました。それで「武士とどう書き分けるつもりだろう???」と。全く違う方なんですね。それも歴史にはさほどお詳しくない。そういうことだったのですか、失礼しました。そういうことなら、「武士」の項目の執筆に関係していない私はある意味適任かもしれませんね。「あっちのことは知らない」って顔が出来ますから。(笑)
    「石井先生の小学館通史」というのは、1974年の『日本の歴史12 中世武士団』のことでしょうか。この本なら持っています。確か神田の古本屋のバーゲン品みたいな感じで200円ぐらいで買ったような。実に良い本です。p215からたった20ページで「武士団とは何か」をまとめていらっしゃいますね。これをベースにそのうちまとめてみます。
    結論はもう出来ています。「中世武士団とはなんぞやという問いに対しては、弓射騎兵としての戦闘技術を特色とする武力組織であって、社会実態としては在地の土とむすびついた地方支配者 である・・・」です。ただ、その前に『奥州後三年記』があるので。(--KTMCHI 2007年12月7日 (金) 23:42 (UTC)[返信]
    >1974年の『日本の歴史12 中世武士団』
    それですそれです。武士団、ぜひお願いします~。--shimoxx 2007年12月10日 (月) 15:10 (UTC)[返信]

    山口県の歴史について

     はじめまして。古い話で恐縮ですが、 Shimoxx さんは2004年8月3日 (火) 19:17 付けで山口県の歴史欄を加筆していらっしゃいますよね。  その中で「大内氏の支配下で山口は日本最大の40万人都市となり西の京として栄えた」とありますが、当時の推定人口の出典を教えていただけるとありがたいのですが。また、Shimoxxさんご自身の記述ではありませんが、山口がいつ頃から西の京と呼ばれるようになったのか興味をもっております。なにかこれも出典があるのでしょうか? ご存知でしたら教えていただけないでしょうか。いろいろ参考書をあたってみても見つからないのです。よろしくお願いします。--Attractor 2007年12月12日 (水) 04:38 (UTC)[返信]

    どうもはじめまして。山口県の歴史節の加筆の件ですよね。お恥ずかしながら当時はウィキペディアに参加して間もなく、怪しいソースを元にいろいろ書き込んでた時期でした。大内時代の山口の人口を40万人とする説は何かの書籍で読んだのですが、忘れてしまいました。古文書から判明している往時の山口市街の範囲はそれほど広くなく、あの狭い地域に40万人も住んでいたとは到底信じられませんでしたが、ついつい書いてしまいました。今週末に時間が取れれば県立図書館で調べてみようと思います。--shimoxx 2007年12月12日 (水) 17:53 (UTC)[返信]

     すぐにお返事いただけてたんですね。すみません。ありがとうございます。--Attractor 2007年12月17日 (月) 22:57 (UTC)[返信]

    Attractorさんのノートへご返事しました。--shimoxx 2007年12月28日 (金) 14:56 (UTC)[返信]

    久々にコメントします。Forestfarmerです。Template:日本の歴史で私が余り思慮も無しに"平成時代"を"平成"と変えてしまいました。まあ私は基本的に翻訳しかしていない歴史的な素人なのでココは博識なShimoxxさんの意見を聞くのがいいかなと思いました。Template:日本の歴史のノートにコメントをお願いします。--Forestfarmer 2008年1月19日 (土) 11:27 (UTC)[返信]

    やっと宿題を提出いたします

    頂いた宿題「武士団」をやっとアップ致しました。「武士」と「武士団」をちゃんと書き分けられたかがとても心配ですが。皆さんの突っ込みが恐ろしくてビクビクしています。--KTMCHI 2008年2月29日 (金) 17:13 (UTC)[返信]

    ご返事が遅くなってすみません。かえって大変なご労苦をおかけしてしまい恐縮です。今はまとまった時間がとれないのですが、近いうちにご労作を精読させていただきたいと思います。楽しみにしてます。どうもありがとうございました。--shimoxx 2008年3月3日 (月) 16:24 (UTC)[返信]

    関東への広域関東圏の統合提案について

    統合理由:独立記事としての存在価値が低い。地理関係の記事は、役所用語の粗製乱造の記事が多く、乱立し過ぎ。もっとまとめて、整理・再編すべき。関東か首都圏(東京大都市圏でもいいのですが)への統合提案をしました。--218.33.136.250 2008年3月8日 (土) 18:12 (UTC)

    (関東地方と統合すべきとの指摘を受けて) ノート:広域関東圏にも書きましたが、それは違うと思いますよ。関東地方は一都六県と決まっています。それ以上広がりません。関東には、ご存知のように様々な意味があります。中国でも関東と使うそうですから。色々な意味がある関東にこそ統合することに意味があると思います。--218.33.136.250 2008年3月8日 (土) 19:45 (UTC)

    ノート:広域関東圏へご返事申し上げました。shimoxx 2008年3月14日 (金) 15:50 (UTC)[返信]

    関東ではなく、首都圏への統合が一番相応しいと考えています。合意していただけますか?--Dowpar 2008年3月14日 (金) 00:31 (UTC)[返信]

    ノート:広域関東圏へご返事申し上げました。shimoxx 2008年3月14日 (金) 15:50 (UTC)[返信]
    主観と批判している人も、主観で意見をいい、また批判しています。客観的な根拠を挙げれば、国連統計局の「世界都市化予測」[2] (UN WUP, United Nations World Urbanization Prospects)、「Géopolis」、「Demographia」、「The Principle Agglomerations of the World (Brinkhoff)」[3]、「The World Gazetteer」[4]などの都市圏定義と全くずれており、世界基準ではない(参考:世界の都市圏人口の順位)。天下り団体、財団法人広域関東圏産業活性化センターが使っているからと記事として相応しいかと論議も成り立ちます。広域関東圏という都市圏として捉えようにも、人口減少時代を迎えた日本。将来、このエリアが一つに統合され、都市圏が形成される可能性は極めて低いとも考えられます。--Dowpar 2008年3月27日 (木) 18:49 (UTC)[返信]

    Shimoxxさんこんにちは。通りすがり2号です。「広域関東圏の統合提案」についてご相談があります。あちらのノートにて私が提案したことですが、Shimoxxさんからは賛同をいただきましたが、他に意見がない場合、いつごろをメドにあのタグを剥がせば良いのか、またそれをどこにどのように告知すれば良いのかが今ひとつ分かりません。
    頻繁に加筆やら何からを繰り返しているくせに、その辺り甘いのは重々承知しておりますが、お分かりになる範囲内でご教授いただけないでしょうか。お忙しいとは思いますが、よろしくお願いします。通りすがり2号 2008年4月16日 (水) 08:25 (UTC)[返信]

    どうもお疲れ様でございます。
    明文化されたルールはなかったと思いますが、ウィキペディア日本語版では、提案からしばらく待って異論がなければ一応の合意が得られたとするのが一般的な共通認識のようです。「しばらく」が具体的にどの程度の期間を指すのかは、状況にもよるでしょうが、概ね1週間ほど待てば十分だと考えられているようです(重大な案件だと2週間とか1ヶ月になるようです)。
    すでにご提案から半月たってますので、議論の終了を宣言されても文句言うバカ方はいらっしゃらないと思いますよ。自分も「1週間ほど待ってご異論がなければ…」てな感じで提案しつつ、実際には2週間とか1ヶ月とか待ってみたりしております。ご参考になれば幸いです。--shimoxx 2008年4月16日 (水) 14:05 (UTC)[返信]
    早々のお返事をいただき、どうもありがとうございます。では、もうしばらく様子を見たあとで、行動に移します。
    今後とも、どうぞよろしくお願いします。通りすがり2号 2008年4月16日 (水) 19:28 (UTC)[返信]

    英語版日本の歴史(history of Japan)のノートにて

    たびたび質問しますForestfarmerです。英語版の記事Histroy of Japanで”日本の執政者は韓国人の子孫であったかもしれない”the rulers of Japan could be of Korean descent"と言う一文を入れるかどうかで保護されました。いろいろあってThe rulerかThe rulersかで揉めた挙句に王朝交替説騎馬民族征服王朝説をもちだされました。詳細はen:Talk:History of Japan#Response to the IP userをお読みください。ここでShimoxxさんに質問します。石渡信一郎氏、水野祐氏、上田正昭氏らによる王朝交替説騎馬民族征服王朝説はどの程度学会で認証されたものなのでしょうか?個人的に今上のゆかり発言の桓武天皇の生母は百済の子孫であると思うのでそこら辺に落ち着けたいのですが。--Forestfarmer 2009年1月19日 (月) 12:32 (UTC)[返信]

    英語版のレベルの低さは目を覆うモノがありますね~。
    お尋ねの騎馬民族征服王朝説は遅くとも1980年代までに論理的根拠を失った説です。考古学の成果から明確に否定されています。
    また、王朝交替説は必ずしも倭王が朝鮮半島出身であることを意味しません。朝鮮半島と関係づける説は、多分に騎馬民族征服王朝説の強い影響を受けていますので、やはり20年前までには論理的根拠を失ってると言ってよいでしょう。
    古代史研究の中心的立場にある研究者の著作(吉田孝『日本の誕生』岩波新書 1997、吉村武彦編『古代史の基礎知識』角川選書 2005、白石太一郎『古墳の語る古代史』岩波現代文庫 2000)を見ても、朝鮮半島からの渡来人がヤマト王権を樹立したという記述は一切なく、騎馬民族文化の受容は「鉄資源を求めて朝鮮半島南部に進出した倭国と、南下した高句麗との衝突を契機としてもたらされたことによる」というのが、現時点での通説になっていることがうかがえました。
    そもそも、「韓国人」「日本人」といったエスニシティは多分に近代以降の産物であり、4~7世紀当時の朝鮮半島諸国や倭国の情況を説明するには不適切な概念です。the rulers of Japan could be of Korean descentの一文は、少なくとも歴史学から出てくる発想ではありません。政治的な性格を強く持つものと断言しておきます。--shimoxx 2009年1月19日 (月) 15:43 (UTC)[返信]
    迅速な回答ありがとうございます。ですがすでに回答している人がいたので(私が思っているより多くの方が見ていたのかもしれません)、上記意見を踏まえつつ、英語版で機会があれば投稿したいと思います。--Forestfarmer 2009年1月20日 (火) 09:29 (UTC)[返信]

    ヤマト王権についてへのコメント依頼 

    よろしくお願いします。--ささのは 2009年7月27日 (月) 06:54 (UTC)[返信]

    コメントありがとうございます、立場は違いますがこれからもよろしくお願いします。--ささのは 2009年7月30日 (木) 11:07 (UTC)[返信]
    ご丁寧なごあいさつに痛み入ります。記事内容の充実に向けて議論できれば嬉しく思います。--shimoxx 2009年7月30日 (木) 13:36 (UTC)[返信]