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'''心霊科学研究会''' (しんれいかがくけんきゅうかい) は、[[1923年]]に[[浅野和三郎]]によって東京本郷に設立された心霊研究団体である。関東大震災を期に東京を離れ、最終的には神奈川県鶴見市の自宅を本部とした。『心霊研究』『心霊界』『心霊と人生』などの機関誌を発行。[[浅野和三郎]]は[[1929年]]、東京での活動のために「東京心霊科学協会」も設立した。[[浅野和三郎]]の死後も次兄、浅野正恭らによって「心霊科学研究会」及び「東京心霊科学協会」の活動は続けられたが、[[太平洋戦争]]で活動を休止、戦後([[1946年]])、弁護士の吉田正一(妻、[[吉田綾]]は[[霊媒]]として知られる)が中心となり、旧「東京心霊科学協会」のメンバーによって「[[日本心霊科学協会]]」が設立された。浅野正恭や[[脇長生]](『心霊と人生』の編集者兼[[霊能者]])もこれに参加していたが、立場の違いから浅野正恭や脇長生は「日本心霊科学協会」を脱退し、「心霊科学研究会」を復活させ、『心霊と人生』を復刊した。「心霊科学研究会」は、[[1959年]]「[[日本スピリチュアリスト協会]]」と改称し、浅野正恭([[1954年]]没)・脇長生([[1978年]]没)両名が亡くなった現在も活動を続けている。
'''心霊科学研究会''' (しんれいかがくけんきゅうかい) は、[[1923年]]に[[浅野和三郎]]によって東京本郷に設立された心霊研究団体である。関東大震災を期に東京を離れ、最終的には神奈川県鶴見市の自宅を本部とした。『心霊研究』『心霊界』『心霊と人生』などの機関誌を発行。[[浅野和三郎]]は[[1929年]]、東京での活動のために「東京心霊科学協会」も設立した。[[浅野和三郎]]の死後も次兄、浅野正恭らによって「心霊科学研究会」及び「東京心霊科学協会」の活動は続けられたが、[[太平洋戦争]]で活動を休止、戦後([[1946年]])、弁護士の吉田正一(妻、[[吉田綾]]は[[霊媒]]として知られる)が中心となり、旧「東京心霊科学協会」のメンバーによって「[[日本心霊科学協会]]」が設立された。浅野正恭や[[脇長生]](『心霊と人生』の編集者兼[[霊能者]])もこれに参加していたが、立場の違いから浅野正恭や脇長生は[[1949年]]、[[日本心霊科学協会]]」を脱退し、「心霊科学研究会」を復活させ、『心霊と人生』を復刊([[1949年]]4月)した。「心霊科学研究会」は、[[1959年]]「[[日本スピリチュアリスト協会]]」と改称し、浅野正恭([[1954年]]没)・脇長生([[1978年]]没)両名が亡くなった現在も活動を続けている。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2009年2月26日 (木) 17:57時点における版

心霊科学研究会 (しんれいかがくけんきゅうかい) は、1923年浅野和三郎によって東京本郷に設立された心霊研究団体である。関東大震災を期に東京を離れ、最終的には神奈川県鶴見市の自宅を本部とした。『心霊研究』『心霊界』『心霊と人生』などの機関誌を発行。浅野和三郎1929年、東京での活動のために「東京心霊科学協会」も設立した。浅野和三郎の死後も次兄、浅野正恭らによって「心霊科学研究会」及び「東京心霊科学協会」の活動は続けられたが、太平洋戦争で活動を休止、戦後(1946年)、弁護士の吉田正一(妻、吉田綾霊媒として知られる)が中心となり、旧「東京心霊科学協会」のメンバーによって「日本心霊科学協会」が設立された。浅野正恭や脇長生(『心霊と人生』の編集者兼霊能者)もこれに参加していたが、立場の違いから浅野正恭や脇長生は1949年、「日本心霊科学協会」を脱退し、「心霊科学研究会」を復活させ、『心霊と人生』を復刊(1949年4月)した。「心霊科学研究会」は、1959年、「日本スピリチュアリスト協会」と改称し、浅野正恭(1954年没)・脇長生(1978年没)両名が亡くなった現在も活動を続けている。

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