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[[画像:Bundesarchiv Bild 151-58-16, Volksgerichtshof, Dr.Carl Goerdeler.jpg|thumb|250px|人民法廷で裁判を受けるゲルデラー(起立している人物)。手前左端が[[ローラント・フライスラー]]裁判長]]
[[画像:20.Juli 1944.jpg|thumb|300px|'''ゲルデラー'''(左下隅)ら、反ナチ活動家を顕彰した[[西ドイツ]]の切手(1964年)]]
'''カール・フリードリヒ・ゲルデラー'''(''Carl Friedrich Goerdeler'', [[1884年]][[7月31日]] - [[1945年]][[2月2日]])は、[[ドイツ]]の保守政治家および反[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]活動家。
'''カール・フリードリヒ・ゲルデラー'''(''Carl Friedrich Goerdeler'', [[1884年]][[7月31日]] - [[1945年]][[2月2日]])は、[[ドイツ]]の保守政治家および反[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]活動家。
ゲルデラーは[[プロイセン]]王国の役人の息子として[[ポズナニ|ポーゼン]]のシュナイデミュール(現[[ポーランド]]の[[ピワ]])で生まれた。彼は法律を学び、[[第一次世界大戦]]後にドイツ国家人民党 ([[:de:DNVP|DNVP]]) に入党。1920年から10年間、オストプロイセン州の州都[[カリーニングラード|ケーニヒスベルク]]の副市長を務めた後、1930年に[[ライプツィヒ]]市長になる。
ゲルデラーは[[プロイセン]]王国の役人の息子として[[ポズナニ|ポーゼン]]のシュナイデミュール(現[[ポーランド]]の[[ピワ]])で生まれた。彼は法律を学び、[[第一次世界大戦]]後にドイツ国家人民党 ([[:de:DNVP|DNVP]]) に入党。1920年から10年間、オストプロイセン州の州都[[カリーニングラード|ケーニヒスベルク]]の副市長を務めた後、1930年に[[ライプツィヒ]]市長になる。

2008年12月8日 (月) 08:25時点における版

人民法廷で裁判を受けるゲルデラー(起立している人物)。手前左端がローラント・フライスラー裁判長

カール・フリードリヒ・ゲルデラーCarl Friedrich Goerdeler, 1884年7月31日 - 1945年2月2日)は、ドイツの保守政治家および反ナチス活動家。 ゲルデラーはプロイセン王国の役人の息子としてポーゼンのシュナイデミュール(現ポーランドピワ)で生まれた。彼は法律を学び、第一次世界大戦後にドイツ国家人民党 (DNVP) に入党。1920年から10年間、オストプロイセン州の州都ケーニヒスベルクの副市長を務めた後、1930年にライプツィヒ市長になる。

ゲルデラーはナチスの人種政策に反対し、ナチスと協力した DNVP を1931年に離党した。1933年にはゲルデラーはナチスに反対する少数の政治家のうちの一人となった。1936年にナチスがライプツィヒが誇りとする音楽家フェリックス・メンデルスゾーンの記念碑をユダヤ人故に破壊した時、ゲルデラーは再建に尽力した。その後、彼は再選を求めず市長職を辞職した。

ゲルデラーは反ヒトラー活動を進め、ヒトラー政権打倒の暁には首相に予定されていた。しかし彼は保守的で君主制に賛意を示し、経済的にはリベラルで、反共産主義的であり、ヒトラー暗殺に反対したことからクライザウ・サークルの若手の反ナチス活動家達から拒否された。

1944年7月17日にゲルデラーの逮捕状が出され、8月12日に投宿した旅館の主人によって密告され逮捕された。彼は9月9日死刑が宣告されたが、他の共謀者を自白させようとしたゲシュタポによって何か月も拷問を受けた。彼は1945年2月2日に断頭台によって処刑された。