「第一次メッセニア戦争」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Tantalos (会話 | 投稿記録)
Tantalos (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
36行目: 36行目:
メッセニアはスパルタに征服され、メッセニア人は[[ヘイロータイ]]の身分に落とされた。そして、約40年後の[[紀元前685年]]、スパルタの支配に耐えかねたメッセニア人はスパルタに対して反乱を起こし、他のポリスも両陣営に加わり、それは[[ペロポネソス半島]]中を巻き込んだ戦争となった。[[第二次メッセニア戦争]]である。
メッセニアはスパルタに征服され、メッセニア人は[[ヘイロータイ]]の身分に落とされた。そして、約40年後の[[紀元前685年]]、スパルタの支配に耐えかねたメッセニア人はスパルタに対して反乱を起こし、他のポリスも両陣営に加わり、それは[[ペロポネソス半島]]中を巻き込んだ戦争となった。[[第二次メッセニア戦争]]である。


{{DEFAULTSORT:たいいちしめつせにあせんそう}}
{{DEFAULTSORT:しめつせにあせんそう1}}
[[Category:紀元前の戦争]]
[[Category:紀元前の戦争]]
[[Category:古代ギリシアの戦争]]
[[Category:古代ギリシアの戦争]]

2008年10月17日 (金) 12:45時点における版

第一次メッセニア戦争
戦争:第一次メッセニア戦争
年月日紀元前743年-紀元前724年
場所ペロポネソス半島
結果:スパルタの勝利
交戦勢力
スパルタ
コリントス
メッセニア
アルカディア
アルゴス
シキュオン
指導者・指揮官
テオポンポス エウパエス
アリストデモス

第一次メッセニア戦争紀元前743年-紀元前724年)はメッセニアスパルタの間で起った戦争である。

原因

パウサニアスによれば、メッセニア人のポリュカレスはスパルタ人のエウアイプノスに騙されたことをスパルタ王やスパルタの役人に訴えたが、スパルタ側は訴えを無視した。そこで、激怒したポリュカレスは多数のスパルタ人を殺傷してメッセニアへと逃げ帰った。当然スパルタはポリュカレスの身柄引き渡しをメッセニアに要求し、メッセニア民会では意見が分かれ、内戦が勃発した。結局は身柄引き渡し反対派が勝利し、身柄引き渡しを拒否した。このためにスパルタはメッセニア征服を決定した。

また、他の理由としては、メッセニア人によるスパルタ王テレクロスの殺害、スパルタ人女性の拉致などが挙げられる。

経過

当初、スパルタによるアンフェイア攻略までは小競り合いが続いただけであった。スパルタはアンフェイア攻略後4年に渡り他の都市を攻撃するも、ことごとく失敗した。二度の会戦の後、メッセニアでは疫病が流行し、それによってメッセニアの戦況は悪化した。そこで、メッセニア軍は要塞化されたイトメ山へ引いた。そして、それから6年目の年にスパルタはイトメ攻略の軍を派遣した。その時の戦いではメッセニア王エウパエスが戦死したものの、戦いは痛みわけに終わった。その後、メッセニア軍はデルフォイに神託を請い、王家の処女を生贄とすれば勝利できるとの答を得て、アリストデモスの娘が生贄に選ばれた。これによってアリストデモスはメッセニア王に選ばれた。

アリストデモス即位から5年目の年にスパルタはイトメ山攻略のために二人の王が率いる軍を派遣したが、紀元前724年のイトメの戦いでメッセニア軍に敗北した。しかし、その後、先の会戦の勝利の立役者アリストデモスは娘の亡霊に悩まされ、娘の墓の前で自殺した。優秀な指揮官を失ったメッセニアは狼狽し、一方スパルタは長期的な包囲戦に戦略を転換した。これによってメッセニア軍は飢餓に苦しめられ、追い詰められたメッセニア軍は決死の反撃を試みるも、返り討ちに遭った。最終的にはメッセニア北部から撤退し、戦争はスパルタの勝利に終わった。

結果とその後

メッセニアはスパルタに征服され、メッセニア人はヘイロータイの身分に落とされた。そして、約40年後の紀元前685年、スパルタの支配に耐えかねたメッセニア人はスパルタに対して反乱を起こし、他のポリスも両陣営に加わり、それはペロポネソス半島中を巻き込んだ戦争となった。第二次メッセニア戦争である。