「耶律斜涅赤」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
新しいページ: ''''耶律斜涅赤'''(やりつ しゃでつせき、生没年不詳)は、(契丹)の軍人は撒剌。 ==経歴== 斜涅赤は、...'
 
yo
15行目: 15行目:
*『[[遼史]]』巻七十三 列伝第三
*『[[遼史]]』巻七十三 列伝第三


{{DEFAULTSORT:やりつしてつせき}}
{{DEFAULTSORT:やりつ てつせき}}
[[Category:遼代の人物]]
[[Category:遼代の人物]]
[[Category:耶律氏|してつせき]]
[[Category:耶律氏|してつせき]]

2008年10月15日 (水) 00:09時点における版

耶律斜涅赤(やりつ しゃでつせき、生没年不詳)は、(契丹)の軍人は撒剌。


経歴

斜涅赤は、契丹六院部の舎利の耶律褭古直の一族であった。始めの字を鐸盌といい、早くから耶律阿保機の幕下に属した。あるとき病にかかり、樽入りの酒を賜って飲むと快癒したので、契丹語で酒樽を意味する「撒剌」を字とした。

耶律阿保機が即位すると、斜涅赤は腹心の部民をつかさどった。天賛初年、迭剌部を北院・南院に分けると、斜涅赤は北院夷離菫となった。耶律阿保機が西征してゴビ砂漠にいたると、諸族はおそれて逃げ散った。そこで耶律阿保機は斜涅赤に命じて諸族を慰撫し集めさせた。

渤海に対する征戦で、契丹軍が扶余城を落とすと、斜涅赤は太子の耶律突欲に従って忽汗城を包囲し、大諲譔を降した。また渤海遺臣の乱の平定にも活躍した。

天顕年間に70歳で死去し、佐命の功臣のひとりとされた。甥に耶律老古・耶律頗徳があった。


伝記資料

  • 遼史』巻七十三 列伝第三