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'''エンヴェル・ホッジャ'''('''Enver Hoxha''', [[1908年]][[10月16日]] - [[1985年]][[4月11日]])は[[アルバニア]]の[[政治家]]、[[社会主義]]者。[[アルバニア労働党]]第一書記、[[1944年]]から[[1954年]]まで同国の首相を務めた。
'''エンヴェル・ホッジャ'''('''Enver Hoxha''', [[1908年]][[10月16日]] - [[1985年]][[4月11日]])は[[アルバニア]]の[[政治家]]、[[社会主義]]者。[[アルバニア労働党]]第一書記、[[1944年]]から[[1954年]]まで同国の首相を務めた。


1908年10月16日、アルバニアの[[ギノカステル]]に[[イスラム教徒]]の地主の家に生まれる。[[1930年]][[フランス]]の[[モンペリエ大学]]に入学する。しかし、政治への関心を強く持つようになり、学問を捨てて1年ほどで退学、[[フランス共産党]]に入党。同党の機関紙『ユマニテ』紙にアルバニア王国政府批判の論文を掲載する。その後、ベルギーに移り、[[1936年]]アルバニアに帰国。[[中学校]]の教師となる。[[1939年]]に[[第二次世界大戦]]が勃発し、アルバニアが[[イタリア]]と[[ナチスドイツ]]に占領されると[[1941年]]アルバニア共産党(後のアルバニア労働党)を結成し、[[レジスタンス]]を展開した。<br>
1908年10月16日、アルバニアの[[ギノカステル]]に[[イスラム教徒]]の地主の家に生まれる。[[1930年]][[フランス]]の[[モンペリエ大学]]に入学する。しかし、政治への関心を強く持つようになり、学問を捨てて1年ほどで退学、[[フランス共産党]]に入党。同党の機関紙『ユマニテ』紙にアルバニア王国政府批判の論文を掲載する。その後、ベルギーに移り、[[1936年]]アルバニアに帰国。[[中学校]]の教師となる。[[1939年]]に[[第二次世界大戦]]が勃発し、アルバニアが[[イタリア]]と[[ナチスドイツ]]に占領されると[[1941年]]アルバニア共産党(後のアルバニア労働党)を結成し、[[レジスタンス]]を展開した。<br>
戦後の[[1946年]]アルバニア人民共和国樹立を宣言。最高指導者となる。独自の[[スターリン]]主義的路線に基づく社会主義国家建設を目指した。[[1948年]][[ユーゴスラビア]]と国交を断絶。スターリンの死後、[[フルシチョフ]]がソ連の最高指導者となるとソ連とも外交関係を絶ち、[[中国]]に接近するが、[[毛沢東]]後の中国がアメリカに接近するに及んで、[[1977年]]から中国を批判し、中国からの援助は途絶えた。
戦後の[[1946年]]アルバニア人民共和国樹立を宣言。最高指導者となる。独自の[[スターリン]]主義的路線に基づく社会主義国家建設を目指した。[[1948年]][[ユーゴスラビア]]と国交を断絶。スターリンの死後、[[フルシチョフ]]がソ連の最高指導者となるとソ連とも外交関係を絶ち、[[中国]]に接近するが、[[毛沢東]]後の中国がアメリカに接近するに及んで、[[1977年]]から中国を批判し、中国からの援助は途絶えた。



2005年6月18日 (土) 01:04時点における版

エンヴェル・ホッジャEnver Hoxha, 1908年10月16日 - 1985年4月11日)はアルバニア政治家社会主義者。アルバニア労働党第一書記、1944年から1954年まで同国の首相を務めた。

1908年10月16日、アルバニアのギノカステルイスラム教徒の地主の家に生まれる。1930年フランスモンペリエ大学に入学する。しかし、政治への関心を強く持つようになり、学問を捨てて1年ほどで退学、フランス共産党に入党。同党の機関紙『ユマニテ』紙にアルバニア王国政府批判の論文を掲載する。その後、ベルギーに移り、1936年アルバニアに帰国。中学校の教師となる。1939年第二次世界大戦が勃発し、アルバニアがイタリアナチス・ドイツに占領されると1941年アルバニア共産党(後のアルバニア労働党)を結成し、レジスタンスを展開した。
戦後の1946年アルバニア人民共和国樹立を宣言。最高指導者となる。独自のスターリン主義的路線に基づく社会主義国家建設を目指した。1948年ユーゴスラビアと国交を断絶。スターリンの死後、フルシチョフがソ連の最高指導者となるとソ連とも外交関係を絶ち、中国に接近するが、毛沢東後の中国がアメリカに接近するに及んで、1977年から中国を批判し、中国からの援助は途絶えた。