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2008年8月10日 (日) 11:17時点における版

平手氏(ひらてし)は、日本の氏族。

出自

平手氏は『尾張諸家系図』によれば、新田氏世良田氏から分岐した「平手義英」[1]なる人物を祖とする氏族と伝わる。

しかし、これは後世の系譜の仮冒とされ、実際は久松氏と同族とされ、菅原氏から出たとの説もある。さらに尾張国の豪族・荒尾宗顕在原荒尾氏)の系統、賀茂氏の流れなど諸説あって判然としない。

戦国時代には織田信長傅役を務めたことで有名な平手政秀がいる。

政秀は若き頃の血気盛んな信長の奇行を諌めるため自害。子の平手久秀が信長と諍いを起こしたことが原因との説もある。久秀の子、平手汎秀は、武田信玄上洛軍に敗れて、討ち死にした(三方ヶ原の戦い)。

政秀の甥である平手季胤(秀胤)は織田信雄に仕えた。

なお、政秀の兄弟である政利から野口氏という庶流も出ている。

脚注

  1. ^ 『尾張諸家系図』の注記によると、義英は生年は永享3年(1431年)生まれで、通称は「加賀守」で、「尾州愛知郡平天城主」と記されている。

系図

荒尾宗顕?
 ¦
秀家(平手氏)
 ┃
秀定英秀経英
 ┣━━━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━┓
政秀        季定(秀定) 野口政利     長成
 ┣━━━━┓    ┃       ┃
長政   久秀   季胤(秀胤)  政知
      ┃            ┃
     汎秀           政矩
                   ┣━━━━┓
                  政種   政清