「ミハイル・ヴォロンツォフ」の版間の差分

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==経歴==
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14歳で、エリザヴェータ・ペトローヴナ大公女(後のエリザヴェータ女帝)の宮廷で小姓?[[w:kammerjunker]]に任命された。[[1741年]][[12月6日]]エリザヴェータは、貴族達に担がれ、[[プレオブラジェンスキー連隊]]の武力を背景に[[クーデター]]を起こし、年少の[[イヴァン6世 (ロシア皇帝)|イワン6世]]に取って代わり帝位に就く。ヴォロンツォフは、クーデターで女帝を物質面で支援した。[[1742年]][[1月3日]]女帝の従姉妹に当たる、アンナ・スカフロンスカヤと結婚する。[[1744年]]には、伯爵位を授与され、副宰相に任命される。この頃の宮廷の実力者として[[アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン|アレクセイ・ペトローヴィッチ・ベストゥージェフ=リューミン]]伯がいるが、ヴォロンツォフは、ベストゥージェフに対して敵意を燃やし、同じく女帝の側近で侍医のアルマン・レストック Armand Lestocqと共謀し、反ベストゥージェフ一派に参加した。反対派がベストゥージェフによって打撃を受けた後も、ヴォロンツォフに対しては、その熟練した文章やヴォロンツォフ一族が女帝に示した数々の贈答によって、エリザヴェータの寵愛が深かったため、宮廷からの追放を免れることができた。とはいえ、ヴォロンツォフは、ベストゥージェフが大宰相として宮廷の中心となっていた期間は、幾分、失意の時を過ごさざるを得なかった。
14歳で、エリザヴェータ・ペトローヴナ大公女(後のエリザヴェータ女帝)の宮廷で小姓?[[w:kammerjunker]]に任命された。[[1741年]][[12月6日]]エリザヴェータは、貴族達に担がれ、[[プレオブラジェンスキー連隊]]の武力を背景に[[クーデター]]を起こし、年少の[[イヴァン6世 (ロシア皇帝)|イワン6世]]に取って代わり帝位に就く。ヴォロンツォフは、クーデターで女帝を物質面で支援した。[[1742年]][[1月3日]]女帝の従姉妹に当たる、アンナ・スカフロンスカヤと結婚する。[[1744年]]には、伯爵位を授与され、副宰相に任命される。この頃の宮廷の実力者として[[アレクセイ・ベストゥージェフリューミン|アレクセイ・ペトローヴィッチ・ベストゥージェフリューミン]]伯がいるが、ヴォロンツォフは、ベストゥージェフに対して敵意を燃やし、同じく女帝の側近で侍医のアルマン・レストック Armand Lestocqと共謀し、反ベストゥージェフ一派に参加した。反対派がベストゥージェフによって打撃を受けた後も、ヴォロンツォフに対しては、その熟練した文章やヴォロンツォフ一族が女帝に示した数々の贈答によって、エリザヴェータの寵愛が深かったため、宮廷からの追放を免れることができた。とはいえ、ヴォロンツォフは、ベストゥージェフが大宰相として宮廷の中心となっていた期間は、幾分、失意の時を過ごさざるを得なかった。


ベストゥージェフが失脚し、エリザヴェータ女帝によって、ヴォロンツォフは、後任の大宰相(帝国宰相)に就任する。英語版によると、ヴォロンツォフは、善意に充ち、公正な人物であったが、政治家としては、非常に臆病で決断力に欠けていたとされる。一方で、[[アンリ・トロワイヤ]]、及び[[池田理代子]]の『女帝エカテリーナ』では、ベストゥージェフやエカテリーナ2世を向こうに回すヴォロンツォフ一族の領袖、政略家として描写されている。ともあれ、エリザヴェータ女帝の支持を得、プロイセンに対しては、公然と敵意を剥き出しにし、[[オーストリア]]、[[フランス]]と良好な関係を維持した。しかし、
ベストゥージェフが失脚し、エリザヴェータ女帝によって、ヴォロンツォフは、後任の大宰相(帝国宰相)に就任する。英語版によると、ヴォロンツォフは、善意に充ち、公正な人物であったが、政治家としては、非常に臆病で決断力に欠けていたとされる。一方で、[[アンリ・トロワイヤ]]、及び[[池田理代子]]の『女帝エカテリーナ』では、ベストゥージェフやエカテリーナ2世を向こうに回すヴォロンツォフ一族の領袖、政略家として描写されている。ともあれ、エリザヴェータ女帝の支持を得、プロイセンに対しては、公然と敵意を剥き出しにし、[[オーストリア]]、[[フランス]]と良好な関係を維持した。しかし、

2008年7月13日 (日) 15:56時点における版

ミハイル・イラリオノヴィッチ・ヴォロンツォフ伯爵Михаи́л Илларио́нович Воронцо́вMikhail Illarionovich Vorontsov1714年 - 1767年)は、帝政ロシア貴族政治家外交官エリザヴェータピョートル3世エカテリーナ2世期の宮廷で活躍し、ヴォロンツォフ家繁栄の基礎を築いた。

経歴

14歳で、エリザヴェータ・ペトローヴナ大公女(後のエリザヴェータ女帝)の宮廷で小姓?w:kammerjunkerに任命された。1741年12月6日エリザヴェータは、貴族達に担がれ、プレオブラジェンスキー連隊の武力を背景にクーデターを起こし、年少のイワン6世に取って代わり帝位に就く。ヴォロンツォフは、クーデターで女帝を物質面で支援した。1742年1月3日女帝の従姉妹に当たる、アンナ・スカフロンスカヤと結婚する。1744年には、伯爵位を授与され、副宰相に任命される。この頃の宮廷の実力者としてアレクセイ・ペトローヴィッチ・ベストゥージェフ=リューミン伯がいるが、ヴォロンツォフは、ベストゥージェフに対して敵意を燃やし、同じく女帝の側近で侍医のアルマン・レストック Armand Lestocqと共謀し、反ベストゥージェフ一派に参加した。反対派がベストゥージェフによって打撃を受けた後も、ヴォロンツォフに対しては、その熟練した文章やヴォロンツォフ一族が女帝に示した数々の贈答によって、エリザヴェータの寵愛が深かったため、宮廷からの追放を免れることができた。とはいえ、ヴォロンツォフは、ベストゥージェフが大宰相として宮廷の中心となっていた期間は、幾分、失意の時を過ごさざるを得なかった。

ベストゥージェフが失脚し、エリザヴェータ女帝によって、ヴォロンツォフは、後任の大宰相(帝国宰相)に就任する。英語版によると、ヴォロンツォフは、善意に充ち、公正な人物であったが、政治家としては、非常に臆病で決断力に欠けていたとされる。一方で、アンリ・トロワイヤ、及び池田理代子の『女帝エカテリーナ』では、ベストゥージェフやエカテリーナ2世を向こうに回すヴォロンツォフ一族の領袖、政略家として描写されている。ともあれ、エリザヴェータ女帝の支持を得、プロイセンに対しては、公然と敵意を剥き出しにし、オーストリアフランスと良好な関係を維持した。しかし、 1762年1月5日、エリザヴェータ女帝が崩御し、ピョートル3世が即位すると、フリードリヒ大王に心酔する新帝に従い、ロシアはプロイセン包囲網から脱退する。ヴォロンツォフは、ヴォロンツォフの姪エリザヴェータ・ヴォロンツォワ(通称リーザ)が、ピョートル3世の寵姫であることを背景に、更にヴォロンツォフ一門の権勢を強めた。しかし、頂点に達したかに見えた、ヴォロンツォフの権勢も、皇太子妃エカテリーナ・アレクセーエヴナが、エリザヴェータ女帝のひそみにならい、オルロフ兄弟を中心とする不平貴族や軍隊を動かし、クーデターを成功させたことによって瓦解した。1762年6月28日即位したエカテリーナ2世は、ピョートル3世を廃位した。ヴォロンツォフは、敗北を悟り、恭順の意を明らかにした。エカテリーナ2世即位後も宰相職に留まるが、姪リーザをめぐってもともと、対立感情を持っていた上、所管していた外交政策がニキータ・パーニン伯の手に事実上移り、自ら引き際を悟ったヴォロンツォフは、1763年公職から退いた。

関連項目

外部リンク