「ジャン2世 (アランソン公)」の版間の差分

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'''ジャン2世'''(John II of Alençon[[1409年]][[3月2日]] - [[1476年]][[9月8日]])はアランソン公[[ジャン1世]]と[[マリー・ド・ブルターニュ]]の息子で、フランス王国軍大元帥[[アルチュール・ド・リッシュモン]]の甥。[[百年戦争]]における[[フランス]]軍の指揮官の一人で、[[ジャンヌ・ダルク]]の戦友として知られる。
'''ジャン2世'''(John II of Alençon, [[1409年]][[3月2日]] - [[1476年]][[9月8日]])はアランソン公[[ジャン1世 (アランソン公)|ジャン1世]]と[[マリー・ド・ブルターニュ]]の息子で、フランス王国軍大元帥[[アルチュール・ド・リッシュモン]]の甥。[[百年戦争]]における[[フランス]]軍の指揮官の一人で、[[ジャンヌ・ダルク]]の戦友として知られる。


==経歴==
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しかしながら、刑は執行されず、[[1476年]]、彼は[[ルーヴル]]の牢獄で死去した。
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2008年3月22日 (土) 10:53時点における版

ジャン2世(John II of Alençon, 1409年3月2日 - 1476年9月8日)はアランソン公ジャン1世マリー・ド・ブルターニュの息子で、フランス王国軍大元帥アルチュール・ド・リッシュモンの甥。百年戦争におけるフランス軍の指揮官の一人で、ジャンヌ・ダルクの戦友として知られる。

経歴

1415年アザンクールの戦いで父が死ぬと、ジャン2世は若くしてアランソン公とペルシュ伯を継いだ。彼は若くしてヴェルヌイユの戦いen:Battle of Verneuil)に参加したがイングランド軍の捕虜となった。その為彼は1429年までを囚人として過ごした。彼は高額な身代金が払われた後に釈放されたが、彼は衰弱し、また彼の領地はイングランド軍の支配下に置かれていた。

解放後間もなく、彼はジャンヌ・ダルクに出会い、彼女やジル・ド・レイラ・イルジャン・ポトン・ド・ザントライユ「オルレアンの私生児」ジャンと共にロワール川付近で戦って活躍した。また彼は、王太子派の中で最も重要なジャンヌの支持者であった。 1429年の9月にジャンヌ等と共に行っていた軍事行動が終わると、彼は一人でイングランド領であるノルマンディーを攻めるようになった。

しかし、ジャン2世はアラスの協定に不満を抱き、シャルル7世と仲違いしていった。彼はプラグリーの乱en:Praguerie)に参加したり、イングランド軍に内通したりした。その後、彼はジャンヌ・ダルクの復権裁判でデュノワ伯ジャンの偽証により逮捕された。1458年、大逆罪で有罪判決を受け、死刑を宣告された。だが判決は減刑されて彼は再び収容された。1461年、彼はルイ11世の手によって釈放されたが、ルイ11世に仕えるのを断りみたび収容された。1474年7月18日、彼はパリの議会で再び死刑を宣告され、領地は没収された。

しかしながら、刑は執行されず、1476年、彼はルーヴルの牢獄で死去した。