「一剣会羽賀道場」の版間の差分
5行目: | 5行目: | ||
== 特色 == |
== 特色 == |
||
[[羽賀準一]]が[[有信館]]で学んだ[[神道無念流]]の色を強く残し、力を込めた打ちを一本としている。そのため、大きく振りかぶってからの一撃を奨励するとともに、現在の[[剣道]]では禁止または避けられがちな突き打ち、横面、体当たり、足がらみ、組討ちなどの技を |
[[羽賀準一]]が[[有信館]]で学んだ[[神道無念流]]の色を強く残し、力を込めた打ちを一本としている。そのため、大きく振りかぶってからの一撃を奨励するとともに、現在の[[剣道]]では禁止または避けられがちな突き打ち、横面、体当たり、足がらみ、組討ちなどの技を有効である。戦前の剣道の稽古を彷彿とさせる。形稽古については、神道無念流の形と羽賀が編み出した形を稽古している。 |
||
また、剣道と平行して[[居合]]([[神伝夢想流]])を稽古する方針となっており、実際に巻藁を斬る据物斬りを奨励している。 |
|||
海外での稽古活動や[[山本寛斎]]の「KANSAI SUPER SHOW アボルダージュ」で[[居合]]の演武を行うなど、精力的な活動を行っている。 |
海外での稽古活動や[[山本寛斎]]の「KANSAI SUPER SHOW アボルダージュ」で[[居合]]の演武を行うなど、精力的な活動を行っている。 |
||
2008年3月9日 (日) 15:53時点における版
一剣会羽賀道場(いちけんかいはがどうじょう、羽賀道場)とは、羽賀準一の没後、園田直を中心とする羽賀の弟子たちによって開かれた道場。
沿革
太平洋戦争(大東亜戦争)後に、GHQの命令により学校剣道が禁止され、大日本武徳会も解散させらた。そのような戦後の混乱期にも剣道の火を消してはならないと羽賀準一を始めとする一部の剣道家は稽古を続けていた。1952年 (昭和27年)10月になると全日本剣道連盟が発足し、剣道が文部省の国民体育館(現共立女子大学)を専用道場として朝稽古が開始され、柴田万作、羽賀準一、渡辺敏雄、湯野正憲らが指導にあたっていたが、いつしか羽賀準一を囲むひとびとが残り、羽賀道場と呼ばれるようになった。1966年 (昭和41年)に羽賀が亡くなると、園田直を中心とする羽賀の弟子たちによって、一剣会羽賀道場が設立され、現在にいたるまで日本武道館第二小道場にて稽古が行われている。現在は、園田直、張東緑の後を継ぎ卯木照邦が第三代会長を務めている。
特色
羽賀準一が有信館で学んだ神道無念流の色を強く残し、力を込めた打ちを一本としている。そのため、大きく振りかぶってからの一撃を奨励するとともに、現在の剣道では禁止または避けられがちな突き打ち、横面、体当たり、足がらみ、組討ちなどの技を有効である。戦前の剣道の稽古を彷彿とさせる。形稽古については、神道無念流の形と羽賀が編み出した形を稽古している。
また、剣道と平行して居合(神伝夢想流)を稽古する方針となっており、実際に巻藁を斬る据物斬りを奨励している。
海外での稽古活動や山本寛斎の「KANSAI SUPER SHOW アボルダージュ」で居合の演武を行うなど、精力的な活動を行っている。
エピソード
王貞治が日本刀での素振りの指導を羽賀から受けたことは有名である。
参考文献
- 堂本 昭彦『羽賀準一 剣道遺稿集―附伝記・日記』、島津書房、1999年、ISBN 4882180561
- 堂本 昭彦『中山博道有信館』、島津書房、1993年、ISBN 4882180480
- 卯木 照邦『もっとうまくなる!剣道(スポーツVシリーズ) 』、ナツメ社 、2007年、ISBN 4816344314
- 『剣道時代』平成18年7月号~平成19年6月号、株式会社体育とスポーツ出版社