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高虎にはなかなか実子ができなかったため、[[藤堂高吉]]([[丹羽長秀]]の子)を養嗣子として迎えていた。しかし高虎が46歳のとき、ようやく実子である高次が生まれたのである。そして[[寛永]]7年([[1630年]])、高虎が病死したため、その後を継ぐこととなった。
高虎にはなかなか実子ができなかったため、[[藤堂高吉]]([[丹羽長秀]]の子)を養嗣子として迎えていた。しかし高虎が46歳のとき、ようやく実子である高次が生まれたのである。そして[[寛永]]7年([[1630年]])、高虎が病死したため、その後を継ぐこととなった。


[[1632年]]の江戸城二の丸、[[1639年]]の江戸城本丸消失後の復興、[[1652年]]の日光の家光廟などの数多くの石垣普請の記録を持っている。
この頃、津藩は財政が極度に悪化していた。このため高次は、年貢増収による財政再建を図って新田開発を積極的に奨励するなどの改革に努めたが、幕府の普請費用を積極的に負担したため、財政はさらに悪化の一途をたどってしまった。

この頃、津藩は前述の石垣普請の負担により財政が極度に悪化していた。このため高次は、年貢増収による財政再建を図って新田開発を積極的に奨励するなどの改革に努めたが、幕府の普請費用を積極的に負担したため、財政はさらに悪化の一途をたどってしまった。


[[寛文]]9年([[1669年]])隠居し、後を長男の高久に譲る。延宝4年(1676年)没した。
[[寛文]]9年([[1669年]])隠居し、後を長男の高久に譲る。延宝4年(1676年)没した。

2008年3月2日 (日) 07:58時点における版

藤堂 高次(とうどう たかつぐ、1602年1月4日慶長6年閏11月11日) - 1676年12月20日延宝4年11月16日))は、江戸時代前期の外様大名伊勢国津藩の第2代藩主。藤堂家宗家2代。

藤堂高虎の長男。母は長連久の娘。正室は酒井忠世の娘。子に藤堂高久(長男)、藤堂高通(次男)、藤堂高堅(三男)、大沢基恒(四男)、藤堂高睦(五男)、娘(京極高和正室)、娘(安藤重之正室)、娘(専修寺堯円室)、娘(石川昌能正室)、娘(井伊直武正室)。官位は従四位下、左近衛権少将、和泉守。

高虎にはなかなか実子ができなかったため、藤堂高吉丹羽長秀の子)を養嗣子として迎えていた。しかし高虎が46歳のとき、ようやく実子である高次が生まれたのである。そして寛永7年(1630年)、高虎が病死したため、その後を継ぐこととなった。

1632年の江戸城二の丸、1639年の江戸城本丸消失後の復興、1652年の日光の家光廟などの数多くの石垣普請の記録を持っている。

この頃、津藩は前述の石垣普請の負担により財政が極度に悪化していた。このため高次は、年貢増収による財政再建を図って新田開発を積極的に奨励するなどの改革に努めたが、幕府の普請費用を積極的に負担したため、財政はさらに悪化の一途をたどってしまった。

寛文9年(1669年)隠居し、後を長男の高久に譲る。延宝4年(1676年)没した。

先代
藤堂高虎
藤堂氏(津藩2代)当主
1630 - 1669
次代
藤堂高久