「越中公方」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''越中公方'''(えっちゅうくぼう)とは、[[1493年]]に[[室町幕府]]10代将軍を廃され京都を脱出した[[足利義稙|足利義材]](義尹、後に義稙)が[[越中国]][[射水郡]][[放生津]]で樹立した幕府政権。当時は越中御所の呼称も用いられた。現在は放生津政権、放生津幕府、越中幕府と呼ばれることもある。<!---??--->
'''越中公方'''(えっちゅうくぼう)とは、[[1493年]]に[[室町幕府]]将軍を廃されたものの京都を脱出した[[足利義稙|足利義材]](義尹、後に義稙)が[[越中国]][[射水郡]][[放生津]]で樹立した幕府政権。当時は越中御所の呼称も用いられた。現在は放生津政権、放生津幕府、越中幕府と呼ばれることもある。<!---??--->


義材は[[神保長誠]]の放生津城([[射水市]]中新湊)に入り、次いで正光寺を改装した御所に入った。越中守護[[畠山尚順]]、[[加賀国|加賀]]守護[[富樫泰高]]、[[越後国|越後]]守護[[上杉定実]]、[[越前国|越前]]守護[[朝倉貞景]]、幕府昵近公家衆日野某、[[阿野季綱]]、[[松殿忠顕]]、[[飛鳥井雅康]]、幕府奉公衆[[伊勢貞仍]]、[[吉見義隆]]、[[畠山政近]]ほかの四番衆、狩野左京介、[[一色視元]]らが政権を構成し、御判御教書、御内書、奉行人奉書を独自に発し、放生津周辺に集中していた幕府直臣団料所・[[石清水八幡宮]]料所などを独自の経済基盤に義材の京都復帰運動を支えた。京都の[[細川政元]]政権との関係から、京都へ帰参したり、越中へ下向するなど人員には出入がある。[[1499年]]、義尹(義材より改名)が越前に動座したことにより越中での活動を終えた。御所となった正光寺は、放生津城に隣接する石丸(高岡市石丸)にあった光正寺(現在は射水市本町へ移転)を指すと考えられている。
義材は越中守護代[[神保長誠]]の放生津城([[射水市]]中新湊)に入り、次いで正光寺を改装した御所に入った。越中守護[[畠山尚順]]、[[加賀国|加賀]]守護[[富樫泰高]]、[[越後国|越後]]守護[[上杉定実]]、[[越前国|越前]]守護[[朝倉貞景]]、幕府昵近公家衆日野某、[[阿野季綱]]、[[松殿忠顕]]、[[飛鳥井雅康]]、幕府奉公衆[[伊勢貞仍]]、[[吉見義隆]]、[[畠山政近]]ほかの四番衆、狩野左京介、[[一色視元]]らが政権を構成し、御判御教書、御内書、奉行人奉書を独自に発し、放生津周辺に集中していた幕府直臣団料所・[[石清水八幡宮]]料所などを独自の経済基盤に義材の京都復帰運動を支えた。京都の[[細川政元]]政権との親疎関係から、京都へ帰参したり、越中へ下向するなど人員には出入がある。[[1499年]]、義尹(義材より改名)が越前に動座したことにより越中での活動を終えた。御所となった正光寺は、放生津城に隣接する石丸(高岡市石丸)にあった光正寺(現在は射水市本町へ移転)を指すと考えられている。


[[足利義稙|足利義材]]が[[放生津]]に滞在したことを背景に、[[飯尾宗祇]]ら連歌師などが来遊した。京都の公家衆から歌書も送付されている。「絹本著色法華経曼荼羅図」([[本法寺 (富山市)|本法寺]]所蔵、国の重要文化財)「青磁浮牡丹文香炉」(芦峅寺一山会所蔵、富山県指定文化財)などが義材の滞在に合わせてもたらされ、伝世している。また[[雄山神社]]前立社壇本殿(国の重要文化財、室町時代中期)も義材の修築と伝える。<!---??--->
[[足利義稙|足利義材]]が[[放生津]]に滞在したことを背景に、[[飯尾宗祇]]ら連歌師などが来遊した。京都の公家衆から歌書も送付されている。「絹本著色法華経曼荼羅図」([[本法寺 (富山市)|本法寺]]所蔵、国の重要文化財)「青磁浮牡丹文香炉」(芦峅寺一山会所蔵、富山県指定文化財)などが義材の滞在に合わせてもたらされ、伝世している。また[[雄山神社]]前立社壇本殿(国の重要文化財、室町時代中期)も義材の修築と伝える。
<!---??--->
{{DEFAULTSORT:えつちゆうくほう}}
{{DEFAULTSORT:えつちゆうくほう}}
[[Category:室町幕府]]
[[Category:室町幕府]]

2008年2月12日 (火) 13:43時点における版

越中公方(えっちゅうくぼう)とは、1493年室町幕府将軍を廃されたものの京都を脱出した足利義材(義尹、後に義稙)が越中国射水郡放生津で樹立した幕府政権。当時は越中御所の呼称も用いられた。現在は放生津政権、放生津幕府、越中幕府と呼ばれることもある。

義材は越中守護代神保長誠の放生津城(射水市中新湊)に入り、次いで正光寺を改装した御所に入った。越中守護畠山尚順加賀守護富樫泰高越後守護上杉定実越前守護朝倉貞景、幕府昵近公家衆日野某、阿野季綱松殿忠顕飛鳥井雅康、幕府奉公衆伊勢貞仍吉見義隆畠山政近ほかの四番衆、狩野左京介、一色視元らが政権を構成し、御判御教書、御内書、奉行人奉書を独自に発し、放生津周辺に集中していた幕府直臣団料所・石清水八幡宮料所などを独自の経済基盤に義材の京都復帰運動を支えた。京都の細川政元政権との親疎関係から、京都へ帰参したり、越中へ下向するなど、人員には出入がある。1499年、義尹(義材より改名)が越前に動座したことにより越中での活動を終えた。御所となった正光寺は、放生津城に隣接する石丸(高岡市石丸)にあった光正寺(現在は射水市本町へ移転)を指すと考えられている。

足利義材放生津に滞在したことを背景に、飯尾宗祇ら連歌師などが来遊した。京都の公家衆から歌書も送付されている。「絹本著色法華経曼荼羅図」(本法寺所蔵、国の重要文化財)「青磁浮牡丹文香炉」(芦峅寺一山会所蔵、富山県指定文化財)などが義材の滞在に合わせてもたらされ、伝世している。また雄山神社前立社壇本殿(国の重要文化財、室町時代中期)も義材の修築と伝える。