「レジナルド・ドハティー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Escarbot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: es:Reginald Doherty
O8543 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{MedalTop}}
{{MedalTableTop }}
{{MedalCountry | {{GBR}} }}
{{MedalSport|[[テニス]]}}
{{MedalSport|[[テニス]]}}
{{MedalGold|[[パリオリンピック (1900年)|1900]]|男子ダブルス}}
{{MedalCompetition|[[オリンピック]]}}
{{MedalGold|[[パリオリンピック (1900年)|1900]]|混合ダブルス}}
{{MedalGold|[[パリオリンピック (1900年) におけるテニス競技|1900 パリ]]|男子ダブルス}}
{{MedalGold|[[ロンドンオリンピック (1908年)|1908]]|男子ダブルス}}
{{MedalGold|[[パリオリンピック (1900年) におけるテニス競技|1900 パリ]]|混合ダブルス}}
{{MedalGold|[[ロンドンオリンピック (1908年) におけるテニス競技|1908 ロンドン]]|男子ダブルス}}
{{MedalBottom}}
{{MedalBottom}}
[[Image:Doherty Brothers.jpg|right|220px|thumb|ドハティー兄弟]]
[[Image:Doherty Brothers.jpg|right|220px|thumb|ドハティー兄弟]]
27行目: 29行目:
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* ランス・ティンゲイ著『ウィンブルドンの100年史』(英語、1977年刊、ISBN 0900424710、アルファ・オメガ社) 32-35ページまでの第4章が“''The Dohertys''”(ドハティー兄弟の時代)という題名になっている。
* ランス・ティンゲイ著『ウィンブルドンの100年史』(英語、1977年刊、ISBN 0900424710、アルファ・オメガ社) 32-35ページまでの第4章が“''The Dohertys''”(ドハティー兄弟の時代)という題名になっている。
[[Category:イングランドのテニス選手|とはてい れしなると]]
{{DEFAULTSORT:とはてい れしなると}}
[[Category:1872年生|とはてい れしなると]]
[[Category:イングランドのテニス選手]]
[[Category:1910年没|とはてい れしなると]]
[[Category:イギリスのオリンピック金メダリスト]]
[[Category:1872年生]]
[[Category:1910年没]]
__NOTOC__
__NOTOC__



2008年1月20日 (日) 06:48時点における版

獲得メダル
イギリスの旗 イギリス
テニス
オリンピック
1900 パリ 男子ダブルス
1900 パリ 混合ダブルス
1908 ロンドン 男子ダブルス
ドハティー兄弟

レジナルド・ドハティーReginald Doherty, フルネーム:レジナルド・フランク・ドハティー Reginald Frank Doherty, 1872年10月14日 - 1910年12月29日)は、イングランドウィンブルドン出身の男子テニス選手。3歳年下の弟ローレンス・ドハティーとともに「ドハティー兄弟」(Doherty Brothers)として活躍した。レジナルドは“Reggie”(レジー)という愛称で呼ばれ、大柄な兄であったことから“Big Do”(ビッグ・ドー)とも呼ばれた。

レジナルドは1896年、24歳の時からウィンブルドン選手権に出場し始める。1896年度のダブルスで準優勝した時は、パートナーは弟のローレンスではなく、ハロルド・ニスベット(Harold Nisbet)であった。レジナルドとニスベットの組は、男子ダブルス決勝でウィルフレッド・バデリーハーバート・バデリーの「バデリー兄弟」(Baddeley brothers)組に敗れた。翌1897年から1900年まで、レジナルド・ドハティーはウィンブルドン選手権のシングルスに大会「4連覇」を達成する。ダブルスでも弟のローレンスとペアを組み、「バデリー兄弟」に代わって「ドハティー兄弟」の時代が始まった。ドハティー兄弟のダブルスは、1897年から1906年まで「10年連続」ウィンブルドン選手権の男子ダブルス決勝に進み、1902年1906年の2度敗れたのみで、通算「8勝」を記録した。後に弟のローレンスが1902年から1906年までウィンブルドン選手権のシングルス「5連覇」を達成し、ドハティー兄弟は「兄弟2人でウィンブルドンのシングルス9勝」を樹立した兄弟テニス選手として、テニス競技の初期に名前を刻んだ。

ドハティー兄弟はウィンブルドン選手権のみならず、海外遠征にも積極的であった。1900年パリ五輪では、兄弟で男子ダブルスの金メダルを獲得し、レジナルドはシャーロット・クーパーと組んだ混合ダブルスの金メダルも獲得した。全米選手権にも遠征し、ダブルスでは1902年1903年に2連覇を達成したが、レジナルドはシングルスで1902年の準優勝1度に終わった。レジナルドは1908年ロンドン五輪にも出場し、地元勢としてダブルスの金メダルを獲得した。2度目のダブルス金メダルの時は、パートナーはローレンスではなく、ジョージ・ヒルヤードブランチ・ビングリーの夫)と組んでいる。

ドハティー兄弟は2人とも若くして早逝し、兄のレジナルドはロンドン五輪のダブルス金メダルからわずか2年後、1910年12月29日に38歳の若さで死去した。1980年、兄弟は2人揃って国際テニス殿堂入りを果たしている。

主な成績

シングルス4連覇(1897年-1900年) [1901年にオールカマーズ・ファイナルで敗れ、準優勝]
ダブルス8勝(1897年-1901年、1903年-1905年) [優勝はすべてローレンスとのペア。準優勝3度:1896年、1902年、1906年]

関連項目

外部リンク

参考文献

  • ランス・ティンゲイ著『ウィンブルドンの100年史』(英語、1977年刊、ISBN 0900424710、アルファ・オメガ社) 32-35ページまでの第4章が“The Dohertys”(ドハティー兄弟の時代)という題名になっている。